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ブログ三銃士

このブログは、FM府中で絶賛放送中の番組、「シネマ三銃士Z」を母体とするブログです。放送では収まりきらない思いの丈のほか、ラジオで放送したものとは関係ない本のことや音楽のことetcを綴っていきます。FM府中ポッドキャストもよろしくね!http://fmfuchu.seesaa.net/

シネマディクトSの冒険~シュウの映画時評・第10回「ホース・マネー」~

シュウ

ペドロ・コスタ「ホース・マネー」(2014・ポルトガル・スタンダード・104分)

 

www.cinematrix.jp

ペドロ・コスタの倫理

 カーボヴェルデの移民たちが、ヴェントゥーラ自身の肉体に比喩的にではなく刻み付けられているのと同程度に、そして初期作『血』『骨』をはじめとして歴史的傑作『ヴァンダの部屋』、『コロッサル・ユース』から本作まで、一貫してヴェントゥーラやヴァンダのような移民たちと彼らが暮らしている(いた)フォンタイーニャスを撮ってきたペドロ・コスタの歴史と人間そのものに対する関心の深さと同程度にこの映画についてなにかを語るということはできそうもない。しかしこの断念は、本作について「深く」何かを書くということの断念ではない。かといって単なる表層批評の肯定でもない。ペドロ・コスタの尋常ならざる倫理性こそがこの映画について語ることを困難にし、ただひたすら感得するしかないものにしているのである。どういうことか。

 

・ヴェントゥーラ

 ヴェントゥーラは病院の中にいる。そこは、暗く深い地下道のような通路を通り、鈍い色をした無機質としかいいようがないエレベーターが一切の想像を妨げる権力的な空間である。ヴェントゥーラは思い出している。そこにはかつて共に働いた友人たちが居り、かつて戦争に参加した自分が居り、クーデターに直面した自分が居る。ヴェントゥーラは歌う。かつて搾取され続けた、今は廃墟となった建物で、名前をつけた子と懐かしい歌を歌う。しかし歌詞が合わず、ヴェントゥーラは無言でその場を去る。ヴェントゥーラは手紙を書く。夫をなくしたと嘆く未亡人に。そしてその夫からだと言って手紙を渡す。ヴェントゥーラは語る。鈍い色をした無機質としかいいようがないエレベーターの中で、クーデター派の兵士に対して。そして全編においてヴェントゥーラの手は震え続ける。

 

・慎みと畏れ

 ひたすら書き連ねるほかないこの映画の数々のシーンは、全てヴェントゥーラの肉体と行為であり、ナレーションもなければ文字もない。そこにあるのは語りと歌である。ヴィタリナが、彼女と夫に関する味気ない公文書を読み上げながら涙するシーンにおいて、文字には何の意味もない。この映画において時系列は存在しない。老いたヴェントゥーラが19歳と自称すること、回想かと思われるシーンにおいても老いたままであることはその証左である。この寡黙さこそがペドロ・コスタの倫理に他ならない。つまり、ヴェントゥーラの、ひいてはカーボヴェルデ移民の記憶を自分が雄弁に語ることなどできるはずもない、それは必然的にペドロ・コスタによる、文字に基づく語りを含まざるをえないという慎み。そして予め整理された記憶を提示すること、すなわち歴史を書くということなど、部外者たるペドロ・コスタができるはずもないという畏れである。このようなペドロ・コスタの倫理に照らせば、なぜ写真が印象的に用いられているかも理解することが出来る。映画を撮るという行為と真っ向から対立しうるこのような倫理を持つにもかかわらずペドロ・コスタにこのプロジェクトを完遂させたのは、恐らく一種の罪悪感とそれ故の使命感、そして何よりも映画という表現形式への信頼ではあるまいか。

 

・表層の感得

 ペドロ・コスタの倫理性は以上のようなことである。したがって、われわれはそう安易にヴェントゥーラやカーボヴェルデの移民たちについて語ることはできない。ただひたすら彼らの語り、身体、歌を感得すること、その限りにおいて表層を見ることにとどまらなければならない。それは『ヴァンダの部屋』そして『コロッサル・ユース』で必然的に我々に強いられていた―それゆえに自覚化されにくい―態度なのである。

シネマディクトSの冒険~シュウの映画時評・第9回「ジュラシック・ワールド」

シュウ

ジュラシックワールド」(2015)コリン・トレボロウ監督(アメリカ・124分・スコープ)

 

 ・「見る」と「見られる」

 恐竜は見るものであって、恐竜に見られることはない。これこそがシリーズ一作目の傑作「ジュラシック・パーク」を貫くモチーフであった。この視線をめぐる一貫した意識があるからこそ、この構図を逆転し、動物園の動物のような存在であったはずの恐竜に「人間が」「見られる」ことで、動物園の生き物から捕食者となった恐竜の恐怖と、動物園の観察者から被捕食者となった人間の恐怖を描くことができたのである。そしてその意味で、実は、恐竜を人間が見るという当初の構図そのものが逆転したものであったことを明らかにするのである。

 なぜ本作が失敗に終わったかの原因は単純にこの点の意識が欠如していたからである。観客そして人間が一方的に恐竜を「見る」演出がなされているのは、海に棲む超巨大な恐竜に餌を与える場面がほとんど唯一のものだが、その反転としての「見られる」は存在しない。そもそも重要な役割を果たすことになるこの海洋恐竜の目が描かれていないのは象徴的である。どのように後にこの恐竜が登場するかまではここで語る必要はないが、その意味でしかるべき登場の仕方でなかったことだけは確かである。

 

・インドミナス・レックスの失敗、ラプトルの失敗

 目玉であるはずのインドミナス・レックスも、全く見られる存在としての恐竜ではなかった。むしろ知能が高く、監視しているはずの人間を見る存在かのように描かれているのである。確かに一作目においても最初はティラノサウルスは姿を見せない。しかし、インドミナス・レックスのような特別な恐竜としてではなく、人間が警戒して目を光らせている中で、それを踏まえて恐竜をあえて見せない演出が周到になされている。そうであるからこそ足音や山羊の骨、影によって逆説的に恐竜を見せることができた。知能の高いインドミナス・レックスを制御できる気配すらなく、すでに人間が把握しきられているような本作とは意味合いが全く違うのである。したがってインドミナス・レックスが脱走するのも予定調和であり、人を次々と襲うのも単なるモンスター映画と同じ意味でしかなく、恐竜である必然性すらない。

 「見つめ合う」関係が巧みに構築されていたラプトルの場合は、こうした構造が確かに生かされる展開となったが、それは視線の演出ではなく、単なる信頼関係の表現でしかなかった。ラプトルのインフレと行動の一貫性の無さがこれを裏付けている。恐竜が出てきさえすればよいとでも言わんばかりの画面は、生き物への畏敬というよりは、むしろジュラシック・ワールドの傲慢な経営者を思わせる。表面的な一作目への目配せなどはどうでもよい。一体いかなる演出がオリジナルの前提となっていたかをよく考えるべきである。

 

・人間の不在

 したがって二頭のティラノサウルスを闘わせたからといって映画になるわけでもないのは当然である。どちらが勝ったとしても結局危機的状況には変わりないのではないかという疑問は野暮だとしても、どちらがどちらなのかが一見して分からないのは致命的である。要はどちらでもよいのだ。この対決シーンでは人間がもはや「見る」観察者でも、「見られる」だけの被捕食者ですらなく、見ていようがいまいが、見られていようがいまいが何の関係もない石ころ同然の存在に成り下がっており、もはや画面には恐竜しか存在しなくなる。この意味で人間不在の映画である。家族のドラマパートも無駄に等しいから、結局全編にわたって人間は不在ということになる。この映画には最初から傍観者しか存在しなかった。被捕食者すら実は居なかったのである。

 恐竜やモンスターと人間を描くということは確かに容易なことではない。しかし、同じように二頭の巨大なモンスターを登場させながらも、それまでの怪獣映画の位相をずらすようなしかたで行い、人間をも描ききったギャレス・エドワーズの傑作「モンスターズ」でのラストシーンを観た者であれば、「ジュラシック・パーク」以後、ドラマもなく演出もなく、そして人間も居ない、ただモンスターとしての恐竜だけがいる映画を許してはならないはずである。

 

 

 

 

「三銃士スポーツ」略してサンスポ第3回 ダービーだ

明日は特別な日だ。妻の誕生日であるとか、結婚記念日だとかではない。もちろん、それらが特別な日ではないというわけではない。

日本ダービーだ。

明日5月29日、東京競馬場東京優駿日本ダービー)が行われる。

今年の出走馬や、予想については多くのメディアが取り上げているからそちらを読むといい。確かに、今年のメンバーは胸躍らせるものがある。ここに至る以前の段階から、超ハイレベルのダービーになりそうだとは思っていたけれど、競馬にはアクシデントがつきもの。故障などでダービーに出走できなくなってしまうということはままある。強い馬たちが順調にここまで駒を進めてこられたことはうれしい限りだ。

それは措く。

この日にたどり着くまでを描こうかとも思ったけれど、それもやめる。

2013年にこの国で生まれた6913頭の馬たちの中から選ばれた18頭。それぞれに多くの人の思いが詰まっている。生産者、育成牧場、厩務員、調教師、騎手、そしてこうした競馬サークルを支える競馬ファン。まだまだ多くの人たちがここにいたるまでで関わっている。もっと言えば、18頭に流れる血統。そこにも多くの人たちの思いが詰まっている。彼らの父母もまたそして祖父母もまた、多くの人の手で支えられ、作り出されたものだからだ。競走馬であるサラブレッドは、その繁殖に人の手が関与しており、それは自然のものとは一線を画す、あるいは人間の作り出した最良の芸術品と呼んでも過言ではないかもしれない。しかし、それほどまでにひとつの生物種の繁殖に関与してしまったからこそ、僕たち人間の彼らサラブレッドに対しての責任はとてつもなく重いものだと思う。どこかで気軽にそれを放棄するなんてことは決してできないし、してはいけないことだ。

まあ、これも別の話。サラブレッドのお話はまた別の機会に書こう。ありていになるのを恐れずに言えば、18頭は僕たちの夢の結晶だ。

さて、冒頭僕はダービーの日は特別だと書いた。日本ダービーは特別だからだ。だいたいの競馬ファンはこれに異議を唱えないだろう。

しかしながら、ダービーがなぜ特別かを説明しようとするとなかなか難しいことのように思う。

ダービーはなぜ特別か?

ダービーは三歳限定だから、一生で一度しか出走できない。しかし、それなら皐月賞菊花賞だってそうだ。NHKマイルカップもそうだ。それらのレースだってそれなりの格式があるけれど、ダービーほど特別ではないだろう。他のレースとの違いは何か?距離?ダービーはいわゆるチャンピオンディスタンスである2400メートルで争われる。しかしながら、この距離をチャンピオンディスタンスと呼ぶのは若干時代錯誤な気がしないでもない。レーシングプログラムの整備された今のご時世、どの距離にもちゃんとした賞金の出るレースがある。賞金?確かに三歳のレースとしては最高額が出されるが、それが日本ダービーを特別にするだろうか?

そもそも、「ダービー」を名乗るレースは世界に星の数ほどある。本家本元のイギリス、ダービーステークスは言うまでもないけれど、フランスにも、アイルランドにも、ドイツにも、イタリアにも、競馬が行われているところならどこにでも「ダービー」はある。それでもなお、日本ダービーこそが僕らにとっては特別なのだ。

ダービーはなぜ特別か?思うに、それは日本ダービー日本ダービーであるからこそ特別なのではあるまいか。その特別さは、それが特別だから特別なのだ、としか言い様のない種類の特別さなのだ。

考えてみれば、おおよそすべての特別さはそうしてしか説明ができない。

「それは特別だから特別なのだ」

いかなる要素を積み重ねようとも、それらを根拠に特別さは生まれない。それはそうした論理とは別の所にある。

それは多くの人が特別だと思っているから特別になるのとも違う。特別なものは特別だから特別なのだ。日本ダービー日本ダービーゆえに特別なのだ。

さて、明日は特別な1日だ。なにしろ日本ダービーがある。

 

 

シネマディクトSの冒険~シュウの映画時評・第8回「山河ノスタルジア」

シュウ

ジャ・ジャンクー「山河ノスタルジア」(スタンダード・アメリカンビスタ・スコープ/125分)

 

www.bitters.co.jp

 

・かなしみ≠悲しみ

 いささか時代の隔絶を感じざるをえないという意味で突拍子も無い冒頭のペットショップボーイズ「Go West」で踊る主演チャオ・タオのシーンから落涙してもおかしくはないこの映画は、まさにその時代なるものを身体、そしてスクリーンに刻印してゆくことで、人間の持つかなしみをも刻み付ける。間違っても悲しみではない。この映画は人間のかなしみを描いている。

 

・スクリーンと世界

 時代に沿ってスクリーンサイズを変更するという演出は、ウェス・アンダーソングランド・ブダペスト・ホテル」が近年試みたところであるが、「山河ノスタルジア」でのその演出の意図もまた、時代の変化をスクリーンサイズで映し出そうとしている点では同じである。しかし、「グランド・ブダペスト・ホテル」におけるそれが、スクリーンサイズによって時代を表現するというものだったのに対し、「山河ノスタルジア」は、スクリーンサイズの広がりが、世界の広がりをも意味しているという点で異なっている。

 

ジャ・ジャンクーと「世界」

 世界の広がり、というところからジャ・ジャンクーの「世界」を想起するのはたやすい。というよりも、「山河ノスタルジア」は、「一瞬の夢」や「プラットホーム」といった初期の作品から、「青い稲妻」や「世界」、最新作の「罪の手ざわり」まで至るジャ・ジャンクーの傑作群を思い出させる断片であふれている。そのいちいちに言及することは野暮であるし面倒でもあるので、「罪の手ざわり」において、第一話の主人公ダーハイがつとめていた職場の建物が、リャンズーの住居として用いられていること。また、投資家として成功するジンジェンが同作におけるダーハイのかつての同級生と重ね合わせられることだけを指摘しておけば十分であろう。もっとも、地球上のモニュメントを再現するテーマパークにおける世界の狭隘さと、それにともなうチャオ・タオの孤独を描いた「世界」との重なりは、おそらくジャ・ジャンクーにおいても最も意識されていたに違いない。「世界」におけるロシア人の踊り子アンナとチャオ・タオとの交流が、共通言語なしに成立したのであるのだから、彼女と息子との間には共通の音楽体験でもあれば十分なのである。そして、中国や自分の故郷がいかなるところなのか、いかなる人間がそこに居るのか、というジャ・ジャンクーの一貫した問題意識は、本作においても独特なかたちで提出されている。

 

・飛行機の墜落と故郷を持たない資本

 スタンダード・サイズで撮られた第一部において、チャオ・タオは飛行機の墜落を思いがけずに目撃することになる。いささか唐突にも思われ、しかも特に劇中で触れられることもないこのシーンは、しかし、重要な意味を担っている。チャオ・タオはどこまでもその土地に縛りつけられ、ないしは住み続け(これもジャ・ジャンクーらしい主題であるが)、離婚して外国、最終的にはメルボルンへ移住する元夫や、それに連れられる子どものダラーとは対照的な人生を送るのである。彼女を象徴的に表すのは故郷の高い塔とヒットソングと餃子であり、他方で元夫と子どもを象徴的に表すのは、ダラーという米国通貨になぞらえた名である。資本に国境はない。それと同時に、元夫やチャオ・タオの息子ダラー、そして高校教師を演じるシルヴィア・チャンのように、アイデンティティを喪失した者はそもそも故郷に無邪気に存在し続けることはできない。

 

・オイディプス?

 ところで、確かに満足に母の記憶もないまま放浪の旅に出たダラーが、ほぼ母と同年齢のシルヴィア・チャンと恋愛関係になる点に、オイディプス的主題を見出すのは道理である。父親と拳銃という不穏な組み合わせも、この解釈を補強する。しかし、父親はダラーがとどめを刺すまでもなくすでに生ける屍のようになっていることと、シルヴィア・チャンもまた故郷を喪失した者であることを考えれば、オイディプス的主題を強調することにあまり意義はなさそうである。

 シルヴィア・チャンはむしろ、かつて母とともに聞いた音楽をダラーに聞かせ、鍵の存在を思い出させ、「時が全てを変えるわけではない」という言葉をダラーに投げかけることのために存在すると考えたほうがよい。ダラーがシルヴィア・チャンに食事を届けるというのもチャオ・タオとの餃子を考えれば示唆的である。シルヴィア・チャンがチャオ・タオの分身だとしても、そこにオイディプスの悲劇性は存在しない。その証拠に、スコープ・サイズとなった第三部において、車のそばに立つ彼らの後ろ、すなわちスクリーン右側から、素晴らしいタイミングと速度でヘリコプターが通り過ぎるショットは、息を呑むほかない爽快さ、ないしは希望を示している。

 

・ラストシーンのかなしみ

 「時が全てを変えるわけではない」という言葉を額面どおりに受け止めるわけにはいかない。この映画では全てが変わっているようにみえるからである。「親子の絆」などスクリーンのどこにも映し出されてはいない。確かに音楽や鍵、餃子といったアイテムや、テレパシーのような声が聞こえるけれども、結局ダラーたちが旅行を断念したように、それはむしろ隔たりを感じさせる。ダラーが安易に「親子の絆」に頼ることはできない。何もやりたいことがないという彼の虚空をまずは埋めなければならないし、たとえ埋めようとしたところで恐らく今後母親と会うことはないのではないかという念さえ禁じえない。分身のようなシルヴィア・チャンにもう出会ってしまったからである。確かに時が全てを変えるわけではない。しかしこの言葉は同時に、時が変えてしまうものも確実に存在することを意味している。だからラストシーンにおいて、かつてと変わらない城壁と塔を前にして、ペットショップボーイズ「Go West」を踊るチャオ・タオに白雪が降りかかるのを、我々は涙なしで観ることはできないのである。

 必見。

 

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不定期刊「三銃士スポーツ」その2 「いくつかの引退」

ダイスケ

彼の指先から放たれたボールは美しい放物線を描き、フープに触れることなくネットを通り抜けて行った。僕らは何度その光景を目にしたことだろう。ディフェンスをあざ笑うようなフェイダウェイショット、立ちはだかるブロックをかいくぐるダブルクラッチ、相手の気持ちを挫く華麗なダンクシュート、そして試合を決めるスリーポイント。この20年間、コービー・ブライアントは様々なやり方でポイントを重ねていった。通算得点の32482ポイントはNBA歴代3位、彼よりも得点を重ねているのはカリーム・アブドゥル・ジャバー(ブルース・リーの死亡遊戯に出てた人)とカール・マローンだけだ。バスケットボールに関心のない人でも知っているであろうマイケル・ジョーダンよりも点を取っているのだ(32292ポイントでジョーダンは歴代4位)。

何千、何万回と、僕らはその光景を見てきた。コービーがポイントを挙げる瞬間を。しかし、もうそれを見ることはできない。2016年4月13日のユタ・ジャズ戦を最後に、コービー・ブライアントは現役を退いた。

僕のNBAを見るようになったのは2000年前後の事だった。その頃リーグの中心にいたのは、ケビン・ガーネット、アレン・アイヴァーソン、トレイシー・マグレイディー、ヴィンス・カーター(シドニーオリンピック、フランス戦でのディフェンス越えダンク!)、そしてコービーブライアントだった。ジョーダンは二度目の引退をしていた頃で、次代のNBAのエースの座を巡って群雄割拠といった様相だった。その中で、日本で人気のあったのはアイヴァーソンだったように思う。当時はやっていたヒップホップ系のファッションで、まあそんな感じのBボーイたちに人気があった。しかしながら、僕のお気に入りはコービーだった。その頃はまだアフロヘアで、アディダスのバッシュで、背番号は8だった。

コービーは高校卒業後の1996年ドラフトでホーネッツに指名されNBA入り、直後にトレードでLAレイカーズに移籍し、キャリアのすべてをそこで過ごした。ちなみにKobe、コービーという名の由来は神戸牛だ。プロバスケットボールプレイヤーだった父親が日本を訪れた際に食べた神戸牛に感動して息子にその名をつけたのだという。なんじゃそりゃ。名前の由来で思い出したけど、ボストン・レッドソックスに在籍したノマー・ガルシアパーラのノマー(Nomar )は父親のRamonをさかさまにしたものだったように思うけど、これは完全に関係のない話。

20年のキャリアでコービーは5度NBAファイナルで勝利し、チャンピオンリングを5つ手にし、オリンピックで優勝して金メダルを得ている。はっきり言って、順風満帆、栄光に彩られている。

一口に栄光と言っても、その20年間、様々なことがあった。シャック&コービーでの三連覇、そのシャックとの不仲説、シャックの去ったあとの低迷とそこからの連覇、アキレス腱断裂と肩の故障で晩年はかなりつらいプレーが続いたし、チーム自体もかなり厳しい時期を迎えた。それは今も継続している。これからレイカーズは低迷期、もしかしたら、暗黒時代に入ることになるだろう。コービーはレイカーズの中心であり、象徴であり、リーグの中心であり、象徴であった。リーグの顔はレブロンやカリーがつとめられるかもしれない。しかし、レイカーズの次のエースは不在だ。

NBAにおいて、レイカーズは特別なチームだ。唯一ホームでのユニフォームに白を使わないことが許されている。レイカーズのあのゴールド(黄色ではなくてあくまでもゴールドだ)はレイカーズが特別な存在であるしるしだ。その姿がNBAのロゴマークになっているジェリー・ウェスト、歴代最多得点カリーム・アブドゥル・ジャバー、アービン"マジック"ジョンソン、そしてシャック&コービー、数々のスターを擁し、1960年以降でプレーオフに進出できなかったのは4度だけだ。レイカーズは常勝が義務づけられたチームだ。コービーはそのチームで、シャックの去ったあとの2004年から12年間、ひとりでその重圧を担い続けてきた。そして、結果を出した。それは一重にコービーの献身ゆえのものだ。コービーほど献身的な選手を、僕は知らない。何に対しての献身か?バスケットボールに対する献身だ。コービーはそれに自らの持てるものすべてを捧げ、それと引き換えとして栄光を手にした。ブルースシンガーのロバート・ジョンスンにはクロスロード伝説というのがあって、いわく十字路で悪魔に魂と引き換えにギターの超絶技巧を手に入れたというのだけれど、コービーもまた魂を捧げていたのだ。それはある晩に十字路で、なんて簡単なものではなくて、毎日毎日、ジムに通い、コートに立ちながら、そして汗をかきながら捧げてきたのだ。名選手たちが去る時にはいつも感じることだけれど、もう二度とこんな選手は現れないのではないか。コービーよりも点を取る選手は現れるかもしれない。コービーよりも多くのチャンピオンリングを手に入れる選手は現れるかもしれない。しかし、コービーほど献身的に、すべてを捧げられる選手は現れないのではないか。
コービーなきあとのリーグの顔にレブロンやカリーの名前を挙げたけれど、僕にとってのヒーローはあくまでもコービーだ。マジックやバードじゃないし、ジョーダンでもない。レブロンやカリーでもない。
「コービー?もう古いよ。今はカリーでしょ」と言うには僕は少し歳を取り過ぎた。これは論理的なものではなくて、そういうものなのだ。たとえコービーの次のレイカーズのエースが現れても、僕にとってのヒーローはコービーだけだ。雛鳥が最初に見た動くものを親と思うように、僕のヒーローはコービー以外にはありえない。
ああ、コービーがいなくなってしまうなんて、なんて寂しいんだろう。

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 現役最後の試合で、コービーは60得点を挙げ、そしてチームを勝利に導いた。これが引退する選手だって!たぶん誰もが思ったことだろう。試合後のインタビューでコービーが笑っていたけれど「今まではパスを出せ!って言われ続けてきたけど、今日はパスを出すな!って言われて面白かったよ」という状況だったから、コービーにボールが集まってきて、打てる状況が作られてはいたのだけれど、とはいえそれを決めなければポイントは稼げないし、試合にも勝てない。決めてしまうところがコービーのすごいところだし、コービーらしい。

コートサイドには当然のことながらジャック・ニコルソンデイヴィッド・ベッカム、ジェイ=Z、スヌープ・ドッグ、その他有名人が大勢詰めかけていた。そして盟友のシャキール・オニール。コービーとシャックの笑顔で抱き合う様子に涙がこみ上げる。

最高のラストゲームだった。お疲れさま、そしてありがとう、コービー。

さてさて、同じ時期に日本でも引退した選手がいた。
まずは北島康介だ。
北島についてはその実績を説明する必要もないだろう。アテネ、北京とオリンピック二大会連続で100メートル平泳ぎ、200メートル平泳ぎで金メダル、世界記録も出した。「超気持ちいい」や「なんも言えねえ」なんて名言も残した。しかしながら、彼の最大の功績は、日本人選手が世界で活躍してもいいのだ、ということを示した点にあるのではないか。これはもしかしたら、水泳に限らず、他の競技にも影響を与えていたかもしれない。

それまで僕らは(あえて日本競泳界とは言わない。僕の個人的な感覚だけれど、これはそういう狭い世界に限らず、この国全体を包み込むある種の空気だったように思うからだ。)、日本人が世界で対等に戦えるということが信じられないでいたように思う。もちろん、北島康介以前にも世界の舞台で戦った日本人はいた。古くは古橋、鈴木大地岩崎恭子も世界で結果を出している。競泳界以外にも視野を広げてみれば、野球では野茂やイチロー、サッカーの中田英寿などなど、世界で活躍する日本人選手はいた。しかし、それらはあくまでも「特別」なことであり、特別な状況や特別な人間にのみ許されたことのようだった。誰もが世界で戦うことを「挑戦」として受け止めていて、それは日本という枠組みの一つ上のステップにあるもののように捉えられていた、ように思う。

それが、北島康介の登場によって崩されたのではないか、と僕は思うのだ。彼はあまりのも当たり前に世界で戦い、そしてそこで結果を出した。「お客さん」としてそこで戦うのではなく、あくまでもプレイヤーの一人としてそこで戦っていた。朝ドラ「あさが来た」風に言えば、彼は「ファーストペンギン」だったように思う。彼が飛び込み、そして切り開いたことで、世界の舞台で戦うというハードルが低くなった、いや、無くなったのではないか。それはここと地続きの場所なのだ。最近の選手たちはそこで戦う際にも変な気負いを背負っていないようにうつる。

 北島康介はいつもにこやかで、明るくて、まるで太陽のような人だった。彼がいないのもまた寂しい。

最後に田児賢一を上げよう。彼に関して、説明するまでもないかどうかは微妙なところのように思う。もちろん、多くの人が彼の名前を知っていると思うけれど、それは彼のバドミントン選手としての実績ではなく、彼のやってしまったこと、違法カジノに出入りしていた事件のことでだろう。

現時点で彼は引退を表明していないが、事実上の引退状態なのではないか。あの件で、日本バドミントン協会は田児に対して無期限の協会登録抹消の処分を決定し、所属先のNTT東日本からは解雇されている。

彼は間違いなく日本バドミントン界の希望だった。全日本総合選手権男子シングルス6連覇、世界ランクは最高で3位にまでなった。闇カジノの件では桃田の方がオリンピックでのメダルが期待されていたようにうつるかもしれないが(事実リオに関してはそうだった)、それまで一番期待されていたのは田児賢一だった。

僕が田児の存在を知ることになったのはNHKの番組で取り上げられていたからだ。その時もやはり悲願のメダル、ということが強調されていた。

いろいろ調べると、田児は非常にストイックな選手だったことが分かる。生活すべてをバドミントンに捧げてきた選手だ。ある記事では、ギャンブルをするのは運を鍛えるためだと発言していたという。実際、勝負ごとにおいて運が勝敗を左右することは多い。

ネットにかかったシャトルがこちらに落ちるのか、それともあちらのコートに落ちるのか、それにはもう普通の練習では越えられないなにか、運と呼ぶしかないものの作用によるところが大きい。

もしかしたら、限界まで鍛え上げたにもかかわらず越えられない壁が、彼の前に立ちはだかっていたのかもしれない。そして、それを超えるには運を鍛えるという発想以外にできなかったのかもしれない。

果たして彼は許されるべきなのか、僕にはわからない。田児賢一はコービーや北島のような引退をすることが可能な選手だったのは紛れもない事実だろう。才能を持ち、全てを競技に捧げた。彼らを分かったものは何だったのか。

と、こんなことを書いていたら、田児賢一が海外で現役を続行する道を模索するというニュースが入ってきた。これには賛否両論、むしろ否定的な意見が多く出てきそうだ。

しかし、バドミントンにすべてを捧げてきた男に他の道を歩むことはできないのだろう。本人も批判が出ることは百も承知に違いない。それでもなお、彼はその道を選ぶのだ。田児賢一を応援しようと呼びかけるつもりはない。呪詛の言葉をぶつけ、石を投げつけ、ブーイングを浴びせるのもいいかもしれない。それでも、僕は彼の戦う姿を見たい気がする。それでもなお戦う男の姿を、見たいと思う。

 

 

 

不定期刊「三銃士スポーツ」その1

ダイスケ

ぼくらのラジオ番組「シネマ三銃士Z」のオープニングではたびたびスポーツネタ(主に野球と競馬)が話される。まあ、スポーツ好きがいるからだ。ぼくをはじめとして。

でも、ラジオの方はあくまでも映画を扱うものなので、そこで自重している有り余ったエネルギーのはけ口としてブログを使おうと思う。

さてさて、球春到来!というには少し時間がたってしまったけれど、日本ではNPBが開幕し、海の向こうのアメリカではMLBも開幕した。

ぼくは阪神ファンだ。今年の阪神はちょっと楽しい。開幕直後ちょっと調子よくポンポンと勝ったこともあるけれど、それ以上に今年は若手をどんどん起用してくれているのが大きい。開幕で一二番を任された高山と横田は言うまでもないけれど、ずっと期待していた北條や陽川が一軍の試合で使われだした。江越も活躍している。若い人たちが必死にやっている姿はいいものだし、それだけでワクワクさせるものがある。もうそれだけでも十分なくらい。結果は伴えばいうことはないけれど、たとえそうならなくてもいいかな、と思えるくらい。もちろん、ベテランが頑張る姿だっていいものだけれど。

今年の阪神を見ていて感じたのは、プロスポーツの目的は、勝つことではなくて、観客をワクワクさせることにあるのだということ。どんなに連戦連勝でも、ワクワクしなければそんな試合は見ない。少なくともぼくは。「勝利」は当然最大のファンサービスだけれど、それ以外の部分もプロスポーツにはあるのだろう。

そんなことを考えていると、白鵬のことを思い浮かべる。先場所の千秋楽、日馬富士戦での立ち合いの変化についてだ。結果としては白鵬の優勝で幕を閉じた大阪場所だったわけだけれども、なんとも後味の悪いものだった。

ぼくは立ち合いで変化した白鵬を責めるつもりはない。いや、ちょっとはあるかな。やはり横綱であるからには、横綱らしい相撲を取ってほしかった。それはぼくのみならず、すべての観客の思ったことに違いない。そして、その反応があの大ブーイングだったのだ。大相撲はお金を取ってそれを見せているわけで、そうなると観客の期待にある程度まで沿うことが必要とされるのは仕方のないことだろう。白鵬は変化するべきでなかった。なぜなら白鵬は相撲界の頂点に立つ横綱であり、その横綱である白鵬に求められているのは「勝利」ではなく「勝ち方」なのだから。

と、ここまで書いてぼくは白鵬を擁護したい。

ここ数年の白鵬は明らかに力を落としてきている。大阪場所の初日を落とした時に解説が口にした「終わったな」というつぶやきはとても現実味のあるものだ。白鵬はそのキャリアの最終段階にきている。

思えば、白鵬の不幸とはつまり、好敵手のいなかったことに尽きるのではあるまいか。大鵬には柏戸がいたし、北の湖には輪島が、貴乃花には曙がいた。なにも相撲に限らない。村山には長嶋がいたし、江夏には王がいた。浅田真央にはキム・ヨナがいた。テンポイントにはトウショウボーイがいた。彼らはその好敵手と戦うことで人気を高めていった。ファンがみたいのは、ただ彼らの勝利ではなく、彼らが胸を熱くさせる戦いののちに勝利することだった。

白鵬には誰がいるだろう。日馬富士稀勢の里だろうか?なんだか物足りなくはないだろうか。いや、もちろん日馬富士たちを否定するつもりはない。しかし、白鵬の強さを証明するに足る存在感のある力士は現役ではいないのではないか。白鵬がどんなに勝ち星を積み上げようと、結局のところで「周りが弱いんでしょ」という声が聞こえてくる。

同じように不幸だったのはテイエムオペラオーだろう。現時点で生涯獲得賞金が世界一の同馬だが、いまいち人気がない。彼もまた好敵手を欠いた孤独な存在だった。

彼らにとって、勝ち続けることのみがその強さの証明だったのではあるまいか。打ち負かすべき好敵手を欠いた彼らの証明は、そうすることでしかできなかったのではないか。白鵬は63の勝ち星を積み上げることで、テイエムオペラオーは年間無敗、そして獲得賞金世界一を得ることで。しかし、彼らがそうして必死になって勝利を積み上げれば積み上げるほど、「ほら見ろ、あんなに勝てるのは好敵手がいないからだ」と、別の証明がまたなされてしまうのだ。不幸な彼らには、自分の強さを証明する術をもたない。

さて、その不幸な白鵬がそのキャリアに終止符を打とうとしている。大地に根が張ったかと思わせるような強靭な足腰には陰りが見えてきた。「敗北」の二字の想像すらできなかったその大きな背中には黄昏の雰囲気が下りてきている。しかし、そうなってもなお、白鵬翔は戦っているのだ。何とか?それは自分の衰えとに他ならない。衰え、力を失っていく自分を鼓舞し、目をそむけたくなるほど暴力的なかち上げを繰り出し、立ち合いで変化をする。何が何でも勝利を得ることだけを考え、なりふり構わない。それをみっともないと思う人もいるかもしれない。横綱の品格云々を言う人もいるかもしれない。ごもっとも。しかしながら、これはすでに相撲云々ではなく、ひとりの人間がどう生きるかの問題なのだ。

これまで好敵手に恵まれなかった白鵬にやっと好敵手と呼べる存在が現れた。それは全盛期の白鵬自身だ。衰えていく白鵬は、その最強の力士と日々戦っているのだ。もしかしたら、彼はその日々の中で、あの大阪場所千秋楽でぼくらが感じたような落胆を何度も味わっているのかもしれない。あの瞬間、変化し勝利した瞬間、最も落胆したのは白鵬本人だったのではないか。白鵬は戦っており、そしてそれに、かつての自分に横綱相撲で勝利していた自分に勝利しようと思っているのだから。

しかしながら、それは敗北の宿命づけられた戦いなのだ。人は老いに勝つことはできない。どんなに速く逃げようとも、衰えは追いつき、人はそれに敗北するだろう。そこにこそ、その人の人生が露わになるのではないだろうか。

常に勝利を求められ、なにより自身がそれを誰よりも強く求め、そしてそれに応えてきた白鵬は、その敗北によって真の偉大さを手にするだろう。

五月場所が始まる。

 

中学国語教科書を読む―その11―

シュウ

平成24年度版中学校国語教科書『中学生の国語』|三省堂「ことばと学びの宇宙」

 

 今回から「理解力1 的確に読み解く」という単元に入る。ここで不思議なのは、この「理解力1」の単元の最初にあるイラストである。二つの机が描かれており、一つは正方形に近く、もう一つは長方形に近い。その下には「細長いのはどちらでしょうか。」とある。長方形のほうが細長いのは一見して明らかだし、錯覚などでもなさそうだから、この問いかけの意味がよくわからない。これって有名なんだろうか?

 

 今回は別役実空中ブランコ乗りのキキ」を読む。ウィキペディアによれば別役は劇作家であり、ベケットに影響を受けた不条理劇の第一人者だという。彼の脚本はアニメ「銀河鉄道の夜」のみ見たことがあるが、あまり覚えていない。むしろ記憶に新しいのは2006年度のセンター試験第一問が別役の『言葉への戦術』から出題されたことと、過去問への掲載を拒否したことである。出版されている過去問では読むことができず、僕も本文は読んだことがない。

 

 「空中ブランコ乗りのキキ」は、しかし、不条理なところも特にない童話風の物語である。あるサーカスで人気のキキは空中ブランコで3回転できる唯一のブランコ乗りであって、町の人気者だった。しかし、キキは観客の拍手を受けながらも、他のブランコ乗りが3回転を成功させたらどうしよう、人気が落ちてしまうという不安にとらわれていた。4回転を試みるが、一度もうまくいかない。そんな中、ある町にキキのサーカスが訪れたとき、キキはひとりの老婆と出会う。老婆は他のサーカス団のブランコ乗りが3回転を成功させたことをキキに告げる。それを聞いたキキは次の日の公演で4回転をしようと決意するのだが、成功する見込みはない。老婆は青い水をキキに渡し、これを飲めば一度だけ4回転ができると告げる。キキはそれを飲んで4回転を成功させ、観客は喝采を送った。しかしキキはもうそこにおらず、大きな白い鳥が悲しそうに鳴いてテントから海の方へ飛んでいったのが目撃されただけであった。

 

 いかにも教科書に載りそうな童話で、このような要約では残念ながら僕には全く興味がわかない。そもそも4回転をはじめて成功とかいわれるとフィギュアスケートが頭に浮かんでしまい、空中ブランコのイメージがない。そもそも僕はサーカスを見たことがない。ただ、フィギュアスケートの4回転も確かにすごいのだけれど、サーカスのほうがより超人的な芸をみせるのは間違いがない。サーカスにスケート選手が入団し、アイスリンクの上で4回転をしたときに、それはサーカスとして高い評価を受けるとは思われない。それもまた超人的な所業のはずだが、この違いは何なのだろう。

 

 このサーカスという場、そして空中ブランコという芸が童話の重要な部分である。空中ブランコ乗りのキキが大きな白い鳥になるという、人ではないもの、まさに超人的、いや鳥人的なものになるというのは、フィギュアスケート選手が鳥になるというよりは説得力がある。別役は周到に鳥のイメージを張り巡らせている。「まるで、鳥みたいじゃないか」とキキを評する観客、「本当に、鳥でもないかぎり四回宙返りなんて無理なんです」と自ら鳥と空中ブランコとの相似性を暗に認めるキキ、「四回宙返りなんて無理さ。人間にできることじゃないよ。」と忠告するピエロのロロ、「飛びながら自分でもまるで鳥みたいだって思えたくらいなんですからね。」と三回宙返りを評するキキ、四回転をする決意をして「白鳥のように飛び出して」いくキキ、「大きな白い鳥が滑らかに空を滑るように」四回転をするキキ。

 

 キキは自らの内に鳥を住まわせていた。各地を転々とするサーカス団でなければキキのような鳥のような人間は存在できなかっただろう。四回宙返りという人間にはできないわざこそが、人間と鳥の境界だったようである。思えば人間と鳥という関係はバレエ「白鳥の湖」も知られるように、それほどかけ離れたものではないし、劇作家である別役が「白鳥の湖」を念頭に置いていないはずはない。「白鳥の湖」において白鳥に姿を変えられたオデットは、月の光にあたると元の人間に戻ることができた。ブランコ乗りのキキはその反対に、サーカスの照明に当てられたときにだけ白鳥になることができるのである。人気が命のサーカス団員であるキキは、宙返りのときの自分をまさに鳥にたとえているように、白鳥になることが自らのアイデンティティであった。

 

 オデットは結局人間に戻ることができず、白鳥の姿のまま、来世での愛を誓って王子と心中する。キキは鳥と人間の間から、鳥になることによって人間の世界から姿を消した。では4回転を成功させ、白鳥となったラストはハッピーエンドなのか。しかしハッピーエンドだとすると「悲しそうに鳴いて」いたことの説明がつかない。4回転は一度だけしか成し遂げられず、キキはサーカスの団員ではなくなってしまった。空中ブランコは人間から鳥になるその一瞬が重要なのであり、鳥であることは、落下する可能性が基本的にゼロになることによって芸にはなりえない。「鳥でもないかぎり四回宙返りなんて無理」であるけれども、鳥であることは宙返りと両立しない。この鳥と人間の行き来こそが劇的であることは、「白鳥の湖」においてオデットが人間の姿に戻るときの美しさ―この美しさが王子をひきつけた―だけでなく、「白鳥の湖」を題材にした近年の映画「ブラック・スワン」においても―「白鳥の湖」とは違ったかたちで―明らかにされている。

 

 

 

 

 

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