ブログ三銃士

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「マグノリア」回の補足

PTA(ポール・トーマス・アンダーソン)は何気なく超絶技巧を織り交ぜてくる。
たとえばウィリアム・Hメイシーが電器店に入っていくシーンやクイズ番組の放送局内のシーンなど、ワンカットで収めることに執念を燃やしていることが明らかだ――その効果は明らかでないにもかかわらず。
編集の巧みさも特筆すべきだが、これはオープニングを観るだけで理解できる。
こうした卓越したテクニックを惜しげもなく繰り出しながら、どこかそうしたテクニックを使ったシーンの魅力に欠けるのがPTAの魅力であるともいえる。
要は観念的なのである。
それに気付いてきたのか、最近の作品ではこの傾向は抑えられているようだ。
しかしこうした技術的前提は、彼の映像が細かいところまでコントロールされており、映したいものを映し、映したくないものを映していないはずだという批評的前提をも定立するから重要である。

ところでこの世に生起することは勿論全て偶然である。
だからこそ人間の意思が問題になる。
ラストシーンはそのことを雄弁に物語っているのである。
しかし間違えてはならない。
ここでいう偶然は必然と全く矛盾するものではない。
たかがこれだけの命題をPTAは(三時間もかけて!)饒舌に語りすぎるので、あえてこの映画について改めて語ることはためらわれるけれども、この観点からすればカエルの雨が降ろうが何も不思議なことではないし、別に「海辺のカフカ」も「アカルイミライ」も想起する必要はない。
そんなことの意味などどうでもよろしい。
It did happen.とPTA自らのたまっている。
全ては偶然であり必然なのだ。
実際登場人物たちにカエルが何かをもたらしただろうか?
彼らがカエルをもたらしたのである。
というよりも、彼ら自身が他者と取り結んでいる関係がカエルなのである。

とはいえ、一応こんな即興的解釈を示すこともできる。
この映画に出てくる人物たちは全て何かしらの過去を捏造して、言い換えれば自らを偽って生きている。
妻子を捨ててそれを秘密にしてきた男、その男を死んだことにし、コンプレックスから女性を征服することに固執するその息子、その男を愛していないにもかかわらず財産目当てで結婚した女、少年である前に天才であることを要求されトイレにも行けない少年、それに似た元天才少年で全てをその過去と稲妻のせいにしている男、近親への性的虐待の記憶を忘却した司会者、その性的虐待の記憶を封印してドラッグに生きるその娘、恐らく離婚経験が原因で女性に対して奥手で思ったことがいえない警察官。
こうした彼らの捏造した過去は次第に剥がれ落ちてゆく。
逆にいえば捨て去ったと思いこんでいた過去を自覚することになる。
カエルの雨はその象徴である。
過去の自覚が結果的に良いことか悪いことかは人によって異なるけれども、このように整理できるだろう。
だがこの整理に何の意味があるというのか?

画面に映っているのはただの人生であり、更にいえば、カエルの雨はカエルの雨であって象徴などではない。
登場人物たちはそれぞれの生を送っているのであり、それが偶然だろうと必然だろうと本人たちにとっては何の意味もない。
天才少年スタンリーは恐らく偶然に図書館で本を読むことの悦びに触れ、物知りと頭が良いことを混同してしまうようなおめでたい天才少年になってしまった。
勿論その成れの果てがウィリアム・H・メイシーだが、彼とて稲妻に打たれたことで馬鹿になってしまった。
しかし彼は天才少年の頃の記憶を未だに保っており、偉人の言葉を一言一句暗誦し、その出典すらそらんじることできるのだから、馬鹿とは自明のことではない。
要するに人生はそう単純ではないというだけのことであるが、そうした必然を稲妻に打たれた偶然で言い訳しているのである。
しかしその彼が愛の哲学を突然展開してみせ、空き巣へと跳躍し、また戻ってみせるのであるから興味深い。
そしてトム・クルーズは本作で出色だ。
凡庸なカリスマから凡庸な父への愛という演技も凡庸な程度に過剰であり、まさにこの映画にふさわしい人物であった。
要するに主人公たちにたいしたドラマなど起きていないし、特に人物同士が交錯しているわけでもない。
これは平凡な物語なのである。

この映画に価値があるとすれば、それはこうした平凡な生を非凡なやりかたで象徴としてではなく露呈し、肯定してみせたからであろう。
その途中の手さばきには不十分な点もあるけれども、その全てを肯定させてしまう力がカエルの雨にはある。
大量の生きたカエルは、それを降らせることへの奇妙な確信すなわち必然=偶然と、生物の持つ生命観の乱暴な充溢によって彼らの生を肯定するのである。
さらに気取った表現で分かりにくく言い換えれば、カエルは象徴などではなくカエルそのものであり、その即物性ゆえに彼らの間に存在する関係の絶対性とでもいうべきものが明確に示されているのである。
これを偶然と呼ぶかどうかは言葉の問題に過ぎない。
重要なことはPTAがその偶然=必然を確信し、肯定しているということである。
これを簡単に言い換えれば、結局この映画はカエルの雨さえ覚えておけばそれでよろしいということである。

なお最後に一つだけ述べておきたい。
この映画に「過去を捨てても、過去は追いかけてくる」というような警句がたびたび登場するが、これは端的にいって誤りである。
過去を捨てることなどできないし、ましてや過去が何かを追いかけることもない。
それはこの映画自体から明らかではないか?
そうではなくて、われわれはウィリアム・フォークナーと共にこう言うべきである。
過去は死んでいない。過去は過ぎ去ったものでさえない、と。

だから生きることはこれほど残酷である。

だから生きることを肯定しなければならない。

 

 

 

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