ダイスケつれづれ 第2回「君の名は?」
夫婦別姓について書こうかと思う。ちょっと時機を逸した感はいなめないが、この話題について語るにあたって、僕ほどの適任者はいないであろう。これをみすみす逃す手はない。
12月16日、最高裁は夫婦がどちらか一方の姓を選択しなければならない現状を合憲と判断した。
http://mainichi.jp/articles/20151229/ddm/005/070/051000c
さてさて、そもそも夫婦別姓とはなんぞや。現在の民法では、結婚した夫婦はどちらか一方の姓に揃えなければならない。これを別々にできるようにしようというのが夫婦別姓の議論だ。その議論は実は結構古いそうで、1976年の内閣府の世論調査ではじめて夫婦別姓についての設問があるそうだ。しかしながら、この議論が活発になってきたのは90年代に入ってからだ。男女共同参画社会を目指す一環として、この議論があるらしい。1996年には法制審議会が選択的夫婦別氏制度を含む「民法の一部を改正する法律案要綱」を答申している。
法務省:選択的夫婦別氏制度(いわゆる選択的夫婦別姓制度)について
が、それから19年を経た今現在も夫婦別姓は導入されていない。
さて、冒頭で僕はこの話題を語る適任者を自任していたが、それはなぜなのか。
まず第一に、僕は結婚して姓が変わった。96%の夫婦は男性側の姓を選択しているそうだから、僕はかなりの少数者ということになる。
第二に、僕の両親はそれぞれ異なる姓だった。もちろん、別姓は法的に認められていないから、つまりは二人は婚姻関係になかったとういことだ。それはそもそもの始まりからそうだったのだろうと思うし、少なくとも僕の物心のつく頃にはそうだった。なぜ両親がそうした選択をしたのか僕は知らない。
しかしながら、僕の育ったその家庭は、別段他の家庭と変わらなかったように思う。父がいて、母がいて、僕と弟がいる。実にありきたりな家庭だ。もちろん、僕は他の家庭で少年時代を過ごしたことがないので、比較はできないわけだけれど、他の家族を外側から眺めている感じとして、それは変わらないか、たいして変わらないものに思えた。おそらく、僕ら家族を他の「ちゃんとした」家族たちと混ぜ合わせてみても、そこから僕ら家族を見分けられる人はいなかったに違いない。
ただ、不便がまるでなかったかというと、そうもいかない。たとえば電話に出るとき。当時は固定電話しかなかったから、電話がかかってきた際がちょっと厄介だ。
「はい、○○です」
「あれ、××さんのお宅ではありませんか?」
僕は母親の姓だったから、父あての電話がかかってきたときにこんなことになった。だから、
「もしもし」
とだけ言って、あとは向こう側にゆだねるようになった。これですべては解決だ。
はっきり言って、両親の姓が違う程度で家族は揺らがない。姓がどうであろうと、父は父であり、母は母だ。それはそうした制度云々よりも肌の感覚としての認識だ。「血」なんて言葉は使いたくない。遺伝子や、姓や、血なんかよりも根源的な何かが親子を、家族を形作る、そんな気が僕はしている。
そんな家庭で育ったためか、僕は自分の姓に対する執着が薄かったように思う。だから、僕が結婚するに際して、僕は妻の方の姓を名乗るのに何のためらいもなかった。正直なところ、それは僕にとってどうでもいいことだったからだ。それが変わろうがなくなろうが、どうってことはない。心の底からそう思う。生まれてからずっと名乗っていた姓を変えたところで、僕のアイデンティティは揺らがないし、家族の中で異なる姓を持っていたとしても別にそれが破たんするということもない。
ちなみに、僕の家族、父、弟、僕は、僕の結婚による姓の変更で三人とも違う苗字を名乗っている。
しかしながら、僕にとってどうでもいいことが誰にとってもどうでもいいことであるはずがない。それによって精神的苦痛を感じる人もいるだろう。アイデンティティが揺らいでしまう人もいるかもしれない。
もしそういう人がいるのなら、彼らの望む選択のできる世の中にするのが望ましいのは言うまでもないように思う。が、現実はそうではないのだ。それに反対する人たちがいるのだ。これが僕には理解できない。他人がどのような選択をしようが、極端な言い方をすればそれは当人たちの勝手であって、そこに外野からとやかく言うのは間違っている、という考え方はおかしいだろうか。
まあ、おかしいと思う人がいるんだろうな。よくわからんけど、よくわからんものをよくわからんと切り捨てるという態度は結局のところ他者の苦痛に対して鈍感になることに繋がっていくのに違いない。
というわけで、僕にできるのは僕の実体験から、僕の感じたことを真摯に伝えることだけだ。夫婦別姓を恐れている人たちへ一言、それで家族が瓦解することはない、と僕は思う。それで瓦解する程度なら、その程度のもののわけだし、「ちゃんとした」婚姻関係の家族であっても崩壊するときは崩壊する。それよりも、他人の苦痛に耳を傾ける、優しい世界を作りませんか?
「初めて夫の姓で呼ばれ、『私は結婚したのか』と思い、頬を赤らめる」 こういうのが幸せな結婚というのだと思う。夫の姓を名乗りたくないと言っている人に限って不幸せに見えるのは気のせいだろうか。
— 竹田恒泰 (@takenoma) 2015, 12月 17
少なくとも、僕は妻の姓で呼ばれて頬を赤らめたことはない。これを女性だけの問題だと考えるとういこともひどい話だ。