ブログ三銃士

このブログは、FM府中で絶賛放送中の番組、「シネマ三銃士Z」を母体とするブログです。放送では収まりきらない思いの丈のほか、ラジオで放送したものとは関係ない本のことや音楽のことetcを綴っていきます。FM府中ポッドキャストもよろしくね!http://fmfuchu.seesaa.net/

Quodlibet #1 「聖餐」をめぐって(1)―『さよなら子供たち』の聖餐

このコーナー(Quodlibet:好き勝手におしゃべりする)は、映画の話を無理やり枕にして、映画以外のテーマについて好き勝手に思ったことを書くコーナーです。たまに映画のことも書きます。

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 ルイ・マルの『さよなら子供たち』(1987年)は、ナチ占領中のフランスで、ユダヤ人の少年を匿うカトリックの寄宿学校を舞台にした映画だ。主人公のユダヤ人少年ボネは、身分を隠しながらも友人を得て次第に周囲に溶け込んでゆくけど、友人たちにいろんなきっかけでその出自がばれてしまう。(友人たちは彼の素性がばれても、教師である神父たちとともに彼をかばおうとするのだけれど)。そのきっかけの一つが、ミサでの「聖餐」のシーンだ。生徒たちが神父に一人一人呼ばれて、パンをもらう。ボネは名前を呼ばれないし、もちろんこのパンを拝領しない。ユダヤ教徒だからだ。ところが、ボネ少年はクリスマスのミサで、名前を呼ばれていないのに、ジャン神父の前に行きパンをもらおうとする。おそらく少年は、聖餐の前に神父が話した説教の内容に強い共感を覚えたのだろう。説教の内容は、ユダヤ人が迫害されているのを看過するフランス社会への、暗示的ではあるものの痛烈な批判をこめたものであった。ボネ少年は、ユダヤ教徒であることを一旦やめて、自らを匿う人たちの輪に加わろうとする。その時のジャン神父の表情はとても見物である。困惑しきった顔をした神父は、結局パンを与えない。
 あるとき、この映画を観たという人とこのシーンについて話し合ったことがある。彼は、このシーンに「匿ってはいるけれど、キリスト教共同体に結局ユダヤ人を入れてあげなかった神父たちの欺瞞」を感じたと言っていた。正直なところ、僕は彼とかなり異なる感想を抱いていたものだからびっくりした。
 カトリックのミサでの聖餐とは、キリストが十字架にかかり人類の罪からの救済のために自らの肉と血を犠牲にしたことを記念するもので、洗礼などと並んで最も重要な儀式だ。そこでは、文字通りパンの本質は「キリストの肉」となり、ぶどう酒の本質は「キリストの血」になるという「実体変化説」が16世紀以来のカトリックの公式教義になっている。そして、体になったパンを食べることは、教会を「キリストを頭とした体」となぞらえる聖書のレトリックに結び付けられる。信徒は「パン=肉」を食べることで、教会という共同「体」のいわば手足になる、というわけだ。考えてみれば「食人」みたいな話で、「食人」のレッテル張りは古代の教会への迫害の時も、そして「実体変化」を否定するプロテスタントによるカトリック批判の際も援用されることになる。
 さて、こうした「聖餐」の意義を考えたときに、戸惑いを覚え少年にパンを与えなかった神父の判断は、「欺瞞」とは言えないんじゃないかなと思う。まだ判断力のついていない少年に、一時の感興だけで「キリストの体」を食べさせ、勝手に「私たちの体の一部」にしてしまうことって倫理的なんだろうか。あの友人は「少年をキリスト教共同体の仲間に入れない」ことに非を感じていたけれど、「少年が本当にその教義に納得してるのかもわからないのにキリスト教共同体に入れてしまうこと」、それは、少年のユダヤ人としてのアイデンティティを抹消してしまうことになるんじゃないだろうか。神父の何とも言えぬ表情に、僕はそうした「ためらい」を感じていた。
 包摂か多様性か。マイノリティーを「みんな」の方に包んで「平等」を図ることと、「ひとりひとり」としてのマイノリティーを「みんな」に包み込まないことで「個性の実現」や「アイデンティティの尊重」を図ること。この二つのベクトルが鋭く対立する場面に僕らはずいぶん前から出くわしている。ジャン神父のためらいは、ボネ少年の「ユダヤ性」までを抹消することを望まなかったということなのではないだろうか。神父の少年に対する態度が誠実であったことは、ゲシュタポに甘んじて連行されるその姿を見れば火を見るより明らかだろう。
 そういえば、ユダヤ人でありながら、ユダヤ的なものに鋭い批判のまなざしを向けたあのシモーヌ・ヴェイユ(1909-43)は、『重力と恩寵』のなかでこんなことを言っていた。

聖体拝領(聖餐)は、善い人たちには幸いとなるが、悪い人たちには災いとなる。そ の結果として地獄に落ちるはずのものも天国にいるのだが、そのものにとっては 天国は地獄だ。

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 ボネがあの時パンを食べ、キリスト教共同「体」の一部になっていたとしたら、確かにボネはキリスト教徒の「天国」に行けたかもしれない。けれど、その天国が、生まれてこの方ユダヤ人として生きてきたボネ少年にとって、「地獄」だったといわないまでも「天国」であったのかどうか、誰も分からない。神父のあの表情は、そんな逡巡を語っているようだ。

おっと、『さよなら子供たち』の話は枕のつもりが長くなってしまった。聖餐についての本題は次回改めて書くことにしましょうか。