ブログ三銃士

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中学国語教科書を読む―その3―

平成24年度版中学校国語教科書『中学生の国語』|三省堂「ことばと学びの宇宙」


 前回は和歌を三首よんだだけで終わってしまった。あまりにのろのろとしたペースだけれど、仕方がない。学生のときもなぜ国語の教科書がこんなに進まないのか、理解できなかったことを思い出す。たかだか数十ページの物語に何ヶ月も費やすなんて!

 和歌のページの隣には俳句が四句並んでいる。順番に詠んでみる。松尾芭蕉「行く春や 鳥啼き魚の 目はなみだ」、与謝蕪村「春の海 ひねもすのたりのたりかな」、小林一茶「めでたさも ちう位なり おらが春」、正岡子規「若鮎の 二手になりて 上りけり」。

 こうして和歌と俳句を順番に詠んでいくと、どうしても五・七・五のリズムが心地よく感じられてしまう。これはなぜなのだろう。リズムに合っているのだろうけれど、ちょっと音楽のことはよくわからない。松尾芭蕉の俳句をみてみると、「行く」「春」「鳥」「啼き」「魚(うお)」など、二音のものが並んでいる。それに「や」とか「の」といった一音の助詞がくっついている。こうした音節の区切りでの偶数+奇数というのが五と七という奇数が多いリズムを生み出しているのだろうか。というよりは、リズムに乗りやすいことばをつくりやすいのだろうか。そういえば漢詩も五言や七言でつくられているけれど、音節と関係あるのだろうか。わからない。いずれにせよ、俳人の選び方からしても、五・七・五から成る古典的俳句を押さえておこうとする意図がみえるのは確かだ。

 松尾芭蕉の「行く春や 鳥啼き魚の目はなみだ」はなんだか杜甫「絶句」にある「江碧鳥逾白 山青花欲然」を思い出してしまう。正岡子規の弟子である高浜虚子が「花鳥諷詠」というようなことを言ったが、まさにそれにあたるのだろう、きっと。でも五・七・五のリズムを考えると、どうしてもそれぞれの部分で意味を完結させてしまいたくなるのだが、「鳥啼き魚の」の部分でどうしても意味が途切れてしまう。しかもこの七音の部分で鳥と魚が二つも出てきて、なんだか気持ち悪い。春を惜しんで魚の目にもなみだが浮かぶ、という発想は面白いが、全体としてはちぐはぐな気がする。「奥の細道」では、この歌が、見送りにくる人々との別離を悲しんで詠んだものであることが記されている。千住、という地名がみえ、現在の荒川区と足立区を両岸におく千住大橋付近らしい。歌川広重も「名所江戸百景」のなかで描いているが、なかなか立派な橋だったようだ。

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 与謝蕪村「春の海 ひねもすのたり のたりかな」はこの中ではもっとも気に入っている。「ひねもす」は「終日、一日中」と高校くらいで暗記するものだが、なんといっても「のたり」という擬音語とも形容詞ともつかないことばと海の組み合わせが素晴らしい。「ひねもすのたりが七文字で七音節を構成しているのも独特であるし、数少ない最後の五音も「のたりかな」と二度目の「のたり」で消費してしまう潔さは、ずうずうしい限りである。この俳句を知って以来、春の海がのたりのたりと寄せては返す情景よりは、これを詠んでいる与謝蕪村自身が寝転がってのたりのたりとしている様子しか思い浮かべることができない理由はそうしたところにもあるのだろう。だいたい声に出せばすぐにわかることだが、「のたり」ということばの、「のたり」感といったらすごいものである。

 小林一茶「めでたさも ちう位なり おらが春」は確かに一茶らしい俳句なのだろうが、こういう類の俳句は「そのままじゃん」といつも思ってしまい、その意味では正岡子規の「若鮎の 二手になりて 上りけり」も、写生という理念はわかるけれども、鮮やかに情景が浮かんでくるけれども、「で?」という気持ちを抑えられなくなる。俳句というジャンル自体を問うポテンシャルを持っているのは「ひねもすのたりのたりかな」の与謝蕪村であり、五・七・五を自明視し、その中で写生やら何やら唱える正岡子規ではないのではないか。だいたい「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」だって何が良いのかちっとも分からない。しかし興味深いのは、この与謝蕪村を発掘し、再評価したのが正岡子規自身だということだ。彼は、『俳人蕪村』(講談社文芸文庫なる本をも執筆しているほどである。残念ながら何が書いてあるのかは全く知らないのだが、単に教科書に載っている俳句だけを肴に、さしたる根拠もなくああだこうだ言っているこの文章の書き手にとっては印象深い関係性である。

 

 こうして和歌と俳句を見開きで眺めてみると、すべての作品が春を題材にしていることがわかる。なるほど、中学一年生が国語の勉強をはじめて、教科書をはじめからめくるのは春だから、なるべく教科書を読んでいる時期に合わせた選び方がされているわけだ。詩も草野心平「春のうた」だしね。こういうことは中学生の頃には意識すらしていなかったが、よく全体を見通してみると、ここだけではなく前半部分は確かに春を扱った作品が多いのである。たとえば漢詩「春暁」枕草子「春はあけぼの…」などである。そして全体を見通すという意味でいえば、この教科書の最後の執筆協力者一覧をみると、俵万智の名前がある。この歌人が、この教科書に収録された和歌と俳句について何を考え、何を言ったのかは少し気になる。ここはまだ古典的な和歌俳句だから、そこまで神経質に選ぶ必要はなかったのだろうけど。そして最後に一つ付け加えておくが、俵万智は本名である。