海外文学バカ一代 第一回「まずは自己紹介をかねて、これまでぼくがどんな本を読んできたのか」
はじめに
ぼくは海外文学が好きだ。
なぜこうなったのかはわからない。
日本文学も読んではいた。漱石や太宰、鴎外、安部公房や大江も読んだ。村上春樹や村上龍も読んだ。あ、筒井も読んだな。星新一も読んだ。こうしてみると、結構読んでいる。たいして読書が好きなわけではないけれど、なんとなく読んでいる。
最近の日本文学はほとんど読まない。なんだか嘘っぽい気がしてしまうからだ。なぜかはわからない。なんだか「文学」というフォーマットを念頭に書かれているような気がしているのかもしれない。その使い古されたフォーマットが使い古されてしまったゆえに嘘っぽくうつるのかもしれない。「文学」はつねに新鮮でなければならない。
そういう意味で、海外文学はぼくにとってつねに新鮮なのかもしれない。それは見知らぬ土地で起こる物語なのだ。そして、その新鮮さが嘘っぽさを消してくれているのかもしれない。
とはいえ「文学」とは本質的に嘘だ。たとえそれがノンフィクションだったとしても。だからこそ、惰性で嘘をついてはいけない。手癖で嘘をついてはいけない。どうせつくなら腹から嘘をつかなければならない。
そんなわけで、ぼくは小説となると海外のものばかり読むようになった。
で、好きなのでそれについて書こうと思う。それで理由になるのかと問われるとなんとも返答のしようがないが、好きでもないものについて書くよりははるかに道理が通っているように思う。
では、誰に向けて書くのか。それはおそらくぼくのように海外文学が好きな人に向けてなのだろう。
いや、それだけではない。ぼくの心持ちとしては、ボトルに手紙を入れて海に流すような感じだ。それをどんな人が受け取るのか、ぼくは知らない。しかしながら、それが電子の海に浮かぶ小島に住むようになったぼくらの流儀なのだ。
どうせなら、海外文学を読まない人にもこれを読んでもらいたいし、これがきっかけになって海外文学の世界に足を踏み入れてもらえたらこれほどうれしいことはないだろう。
まあでも、どんな人が受け取ってもいいのだ。そんなものだ。
ぼくはこれまでにどんな本を読んできたか
というわけで、自己紹介がてら、ぼくのこれまでに読んできた本を列挙していこうかと思う。これでぼくがどんな傾向をもった読書をしてきたのか、どんな好みをもった人間なのか、そういったことがわかるだろう。
最初に断っておくと、ぼくは外国語ができない。英語もフランス語もドイツ語もイタリア語もチェコ語も中国語もロシア語も、とにかくありとあらゆる外国語ができない。なので海外文学を読む際には翻訳されたものを読むことになる。翻訳されたものであれば、英語で書かれたものでも、フランス語で書かれたものでも、イタリア語で書かれたものでも、いかなる言語で書かれたものでも読める。なぜなら、それはぼくが唯一読める言語である日本語になっているからだ。
こうなると、翻訳家がいてくれたことを幸福に思わなければならない。
翻訳家については稿ををあらためよう。今回はぼくの好みを知ってもらうことにとどめる。
アメリカ
まずはアメリカ合衆国の作家を挙げてみよう。
とにかく大好きなのはトマス・ピンチョン。ぼくがピンチョンを知ったのは山形浩生の『新教養主義宣言』という本で、それから調べてみると、このピンチョンの書いた『重力の虹』は読めない小説として有名だという。「読めない小説」ってなんだ!ぼくの好奇心はくすぐられ、そして実際にそれを読みたいと思った。のだけれど、当時『重力の虹』は版元品切れ状態で、古本でもそこそこの値段になっていた。で、入手できた『V.』を読んだのだけど、その時はピンとこなかった。で、ちょっとたってから、新潮社から全集が出ることになった。その全集の『逆光』でぼくはピンチョンのとりこになった。「読めない小説」なんて言われているから、とても難解なことが書いてあるものだと思って構えて読んでいたものだから、ピンチョンの魅力に気付かなかったのだと思う。ぼくの感覚として、ピンチョンの小説を脳内で映像化すると「サウスパーク」の絵になる。ふざけていて、ぶっ飛んでいて、小ネタに満ちていて、それでいて皮肉が利いている。そういう見方をすると、他の小説もそのリズムがわかってきて、その魅力もわかってきた。
他にはリチャード・パワーズが好き。『舞踏会に向かう三人の農夫』や『囚人のジレンマ』『われらが歌うとき』『エコーメイカー』も面白かった。でも、なんだかちょっと突き抜けた感がないような気がしないでもない。
ミルハウザーやエリクソンはちょっと苦手だ。よくできている感じはするのだけど、なんか苦手。
ポール・オースターもそんなに好きではない。それなりに読んだけど、のめりこむほどではなかった。
このあたりは柴田元幸翻訳である。
そういえば、のめりこんだのはカート・ヴォネガットだ。最初に読んだのは『タイタンの妖女』それから片っ端に読んでいった。一番好きなのは『母なる夜』かな。『スローターハウス5』も好き。早川のSF文庫に入っているが、SFとくくっていいものか。
ケリー・リンクも好き。特に『マジックフォービギナーズ』。『スペシャリストの帽子』なんかも面白い。彼女の書く短編は何とも奇妙なことが起きたりするのだけれど、それがしれっと起こるものだから混乱してくる。
ジョージ・ソーンダーズも読んだ。彼はアメリカで天才賞と名高いマッカーサー奨学金というやつをもらっている人で、シニカルな短編を書く人で嫌いじゃない。
ブライアン・エヴンソン、「新潮」に掲載された短編を読んで衝撃を受けた。とにかく不気味な世界に突き落とされる。突き落とされるというのは、突如不気味な状況が提示され、それに何の説明もないからだ。
セス・フリード、これも「新潮」に掲載されたものを読んだ。エヴンソンほどではないが、やはり気味の悪い世界。
アメリカといえば短編だ。『20世紀アメリカ短篇選』という文庫がよい。
バーナード・マラマッド、もちろんカポーティ、メルヴィル、マーク・トウェイン、フィッツジェラルドあたりも読んだ。フォークナー、ホーソーン、ヘミングウェイは読んでいない。読もうとしたけれど、挫折した。ぼくは無理をしない主義だ。
ジョナサン・サフラン・フォアやネイサン・イングランダーも読んだな。フォアは映画化されてしまったために「文学」っぽさがないような印象になってしまうかもしれないが、彼はその「文学」に対する挑戦者だ。イングランダーはユダヤ人であることが主題に見えるが、それでもそれは誰にでも代替可能なものになっていると思う。
ここで少し迷うのが、ジュノ・ディアスやリン・ディン、ハ・ジンやサルバドール・プラセンシア、マヌエル・ゴンザレスをアメリカの作家に入れていいものかどうかだ。彼らはその活動の拠点をアメリカにおいているが、そのルーツの匂いが強く出ている。
この中だとプラセンシアがぼくはお気に入り。『紙の民』は傑作だと思う。
さて、いろいろ挙げてきたけれど、(たぶん漏れているものもある)長くなったから今回はここまで。次回はアメリカ以外の作家を挙げて行こうと思う。
それではまた。