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ブログ三銃士

このブログは、FM府中で絶賛放送中の番組、「シネマ三銃士Z」を母体とするブログです。放送では収まりきらない思いの丈のほか、ラジオで放送したものとは関係ない本のことや音楽のことetcを綴っていきます。FM府中ポッドキャストもよろしくね!http://fmfuchu.seesaa.net/

シネマディクトSの冒険 ~シュウの映画時評・第四回「ザ・ウォーク」~

 前回の「ブリッジ・オブ・スパイ」評において、私が一本の糸が両端から引っ張られることをサスペンス性の比喩として用いたとき、そうした選択を無意識に決定していたのはこの映画だったのかもしれない。というのもまさにこの映画こそ、110階建て、地上417メートル、双子のワールド・トレード・センターの両端をむすぶ一本のワイヤーによって「緊張」を、そして弛緩を体現しているからである。

 

 稀代の曲芸師、綱渡り師であったフランス人、フィリップ・プティは、偶然アメリカで建設中の二棟の高層ビルの広告を見たことからその間を命綱なしで綱渡りしたいという信じがたい願望に取りつかれ、フランスからニューヨークへ移り幾人かの「共犯者」たちと共に完成間近のワールド・トレード・センターへと潜入する。この狂気は全員に感染しているのだが、この映画はそんなことを微塵も感じさせずに極めて爽やかに描かれる。これだけで彼の破格は分かるだろうが、このフィリップ・プティの綱渡りを実際の映像も交えて再現したドキュメンタリー「マン・オン・ワイヤー」を観ると、どうやらこの映画で描かれているよりも彼は常軌を逸していたとしか思われない。この映画で流暢なフランス語とフランス語訛りの英語を操るジョゼフ・ゴードン・レヴィットのほうがよほど常識的な人間にみえるほどだ。そういうわけでこの傑作ドキュメンタリーもぜひご覧あれ。

 

 

マン・オン・ワイヤー スペシャル・エディション(2枚組) [DVD]

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 二棟のビルに渡されたワイヤーは、当然のことながらだらしなく垂れさがっている。これをしっかり張らなければ、仮にうまく綱渡りができたとしても、重みや支えの弱さでワイヤーが切れてしまう可能性がある。劇中でも何度も強調されるように、ワイヤーを張ることが絶対に必要な前提なのであって、そのためにパパ・ルディから教えを請わなければならなかったのである。そういうわけで、この映画の真のサスペンスとは、ワイヤーを緊張させることに存在する。綱渡りとはそのように緊張させられたワイヤーの跡を一歩一歩なぞり、たどっていくことに他ならない。確かに我々はそこに緊張を覚えるけれども、それは彼が落ちるかもしれないというおそれからではない。この映画は回想という構造をとっているから、プティが落下したはずはないのである。そこでの緊張は、綱渡りそれ自体というよりは、想像しがたい高所に張られたワイヤーと、それを想像どころか現前するものとして映像化したことにある。こうした一本のワイヤーのイメージは、監督ロバート・ゼメキスにとっておなじみのものである。たとえば「バック・トゥ・ザ・フューチャー」においては過去、現在、未来が一本の線でつながっていることを、デロリアンの一直線の爆走でなぞっていたのである。

 

 

 

 

 とはいえ、出来としてはとりたてて大絶賛するほどでもないとも思われるこの映画に言及せざるをえないのはこうしたサスペンス性を評価するからだけではない。それは3Dという新たな技術を実写映画に見事に結実させているからである。2016年1月は、日本においてスティーブン・スピルバーグロン・ハワード、そしてこのロバート・ゼメキスという現在のハリウッド映画を代表する3人の監督作が連続して公開されたという点で、クリント・イーストウッド、ジャン・リュック・ゴダールフレデリック・ワイズマンという同じ年の3人の新作が公開された2015年に勝るとも劣らず興味深い。しかし、スピルバーグは自身の監督作としては3Dを傑作アニメ「タンタンの冒険」でしか使っていない。そしてロン・ハワード「白鯨との闘い」での初3Dは、その見え透いた「3D用」演出といい、CG丸出しの航海シーンといい、技術的な点でいえば不満が残る結果となった。

 

 

 

 

 これらに比較してこの「ザ・ウォーク」での3Dは、この技術を使うに値する演出、映像となっている。あえての3D演出は極力おさえられ、ワイヤーシーンに全精力が注入されていることがはっきりとわかる。ビルの屋上からカメラが身を乗り出し、地上を収めるシーンなど、とりたてて高所恐怖症というわけでもないが高所が得意なわけでもない私にとっては肝を冷やすばかりだった。それだけにこの無謀な計画の共犯者の一人が高所恐怖症であるということの面白さも際立つというものだ。

 

 さらにこの映画が重要であるのは、ワールド・トレード・センターを描いているからである。冒頭、ジョゼフ・ゴードン・レヴィットの、そして自由の女神の(アメリカ!ニューヨーク!)肩越しに二棟のビルがそびえ立っている。このビルが映画の舞台であるから、それ自体は別段不思議ではない。彼が綱渡りをした当時には、もちろんまさにそのビルは存在したにきまっている。しかし、この映画が回想であることを忘れてはいけない。彼がこの物語を語っているのが一体いつのことなのかは判然としない。仮に主人公がいま語っている時間が2001年9月11日以降だとしたら。ラストシーンで再び主人公は自由の女神に乗りながら後ろを見るが、このときにわれわれが覚えざるをえない懸念がこれである。このときに双子のビルが存在しているかどうか。次のショットでは何もない虚空が映し出されているかもしれないという思いに駆られるのであり、しかもこの思いは決して根拠のない空想ではなく、現実に起こったことを反映しているのである。その意味でゴジラがビルを踏みつぶしたり、アクション映画でドームを破壊することとは全く異なる。このような考えは、いわばポスト9.11の時代に生まれた表象がその内に必然的に抱え込まざるをえない異物のようなものである。これは映画に限らない。最近読んだ例では、リチャード・パワーズ『エコーメイカー』で、登場人物のアルフレッド・ウェーバーはニューヨークを歩くときの影のさしかたが変わってしまったと感じているけれども、小説全体にもポスト9.11の影が色濃く反映されている。

 

 

エコー・メイカー

エコー・メイカー

 

 

 

 ラストシーンでもビルは存在している。しかしその瞬間にわれわれは、その必然性など無いのにもかかわらず、この映画のフィクション性を自覚するのであり、その裏返しとしてこの映画の現実性をも理解するのである。