ブログ三銃士

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シネマディクトSの冒険~シュウの映画時評・第五回「キャロル」~

トッド・ヘインズ「キャロル」(アメリカンビスタ・118分)

carol-movie.com

 

 

・映画とその時代

  地下鉄の音が流れながら通気口が写るオープニングに「CAROL」のタイトルがうっすらと現れる。アイゼンハウアー大統領の就任というニュースから、そして粒子が荒っぽく残るフィルム風の映像からわかるように、1950年代初頭という時代を物語においても撮影においても意識したこの映画は、このオープニングにおいて、その時代の薄皮を一枚めくることを宣言している。すなわち当時はタブーとされた女性同士の恋愛という題材を正面から扱おうとしているのである(詳しくは蓮實重彦『ハリウッド映画史講義』、あるいは恐らく専門家が執筆していると思われるヘイズ・コード - Wikipediaを参照)。これは、監督トッド・ヘインズが、同じように50年代を意識した前作「エデンより彼方に」から引き続いて持つ問題意識である。

 

  

 

 ・反復と差異、手と視線

 オープニングの通気口から、カメラはこれも50年代に特徴的なクレーン撮影を用いながらワンカットで冬のニューヨークの街並を映し出す。カメラに追いかけられる男は、バーで酒を頼みながら、向こう側に座る女性に目を向ける。向こう側にはキャロルとテレーズが相対するテーブルが存在しているのである。この男がテレーズに気付いて声をかけ、彼女をパーティに誘うために二人の間に割って入る。キャロルは帰ってしまうが、この時に「楽しんで」と一言添えてテレーズの右肩に手を置く。このときにテレーズの目線は明確にキャロルの手に向いている。このこと自体、そしてこれが意味することも明白すぎていちいち指摘するのも憚られるのであるが、重要なことは、その後に男もまたテレーズの左肩に手を触れるということ、そしてテレーズはそれに全く反応しないということである。

 

 しかしこのシーンの重要さはその演出だけにとどまらない。このワンセットの演出は、映画の終盤で全く逆から繰り返されるのである。すなわち、テーブルに座る二人をとらえるカメラは、階段を挟んで向こう側にやってくる男を確かに捉えており、テレーズがアップになって何かを言おうと逡巡しているときに、テレーズの後ろから声がかかるのである。男が声をかけてテレーズが振り向くシーンは、ラストではテレーズ目線となることで、オープニングとカメラの位置がちょうど逆になっている。さらに、その後、キャロルがテレーズの右肩に手を置くとき、オープニングではこのショットはテレーズに向かって正面から撮られていたのに対し、ラストではカメラはテレーズの背中からこのショットを撮っている。同様に男の手もオープニングは後ろから撮られていたのに対し、ラストでは正面から撮られている。ラスト、このシーンのあとにテレーズが鏡を見るのも偶然ではない。このように、この映画は、「手」そして「視線」の映画であることをオープニングにおいて宣言し、ラストにおいても確認しているのである。鏡の多用は視線の演出の結果であるし、キャロルとテレーズの出会いは何がきっかけであったかを考えるだけでも「手」の意味は理解できるだろう(原作にはこのような要素は見当たらないから、これは決定的な演出である)。彼女たちが手を肩に触れるシーンは重要なものとして描かれるし、二人が初めてベッドを共にするシーンはその代表的なものである。

 

・色の受け渡し

 実際この映画は、キャロルとテレーズの二人の関係性をどのように表現するかに腐心している。たとえば、二人の間には色の継受が見られる。つまり、クリスマスセールの時期にデパートの人形売り場で働くテレーズは、店員用に赤い帽子をかぶっている。このときにテレーズはキャロルと出会うのだが、その後、二人の仲が進展するきっかけとなる日、すなわちキャロルが郊外からニューヨークへ赴き、顧問弁護士と離婚についての相談をする日、そしてキャロルがテレーズの家を訪れ、旅行に誘う日に、キャロルは深紅のコートを羽織っているのである。念のため付け加えれば、キャロルが弁護士事務所を訪れた後に、真っ赤なトラックが道を横切ること、そしてそこで何かにためらうかのように道端へ寄り、煙草を吸うのも偶然ではない。そしてキャロルはテレーズと旅行へ行くことになるのだが、その旅行の際に、二人がダイナ―で食事をしているシーンで、テレーズは鮮やかな赤いセーターを身に着けている。一瞬ではあるが、テレーズが車内でリンゴをかじることも忘れてはならない。さらに、その後、二人がベッドで眠っているところを薄闇の中捉えるショットで、カメラは二人の手が絡まり合い、一つに結ばれていることを明らかにするのだが、そのどちらのものとも判別しがたい手には赤いマニキュアが光っているのである。このような赤の受け渡しはどこで終わるか? それこそがラストシーンであり、いったいどのような赤がそこにきらめいているかを見逃してはならない。蛇足を承知で付け加えれば、旅行から帰った後に失意のテレーズが部屋を塗り直した薄い青は、キャロルの銃を偶然発見してしまうシーンでのセーターの色を想起させるものである。

 

・歩くこと

 テレーズは、一人では何も決められない。というよりも自らの意思や欲望が何かすら分かっていないがゆえに、愛していないことが明らかなリチャードとずるずる婚約者のような関係になってしまい、ランチでは食事も飲み物も相手と同じものを注文してしまう。そのようなテレーズが、自転車においてもリチャードの後ろに乗り、車においても運転するキャロルの横か後ろに座っているだけなのは当然である。この映画においてテレーズが、誰の付き添いもなく、誰に言われたわけでもなく一人で歩くシーンは数少ない。しかし、それこそテレーズの成長と自らの欲望をはっきりと知ることの象徴なのである。たとえば第一に、キャロルに郵便を出す際に、キャロルは一人で決断し一人で夜中にポストに投函している。第二に、キャロルがタクシーに乗ってハージとの話し合いをするためニューヨークの弁護士事務所へ赴く際に、ニューヨークタイムズ社へと出勤するため一人で歩いて通勤するテレーズが映し出される(このショットがなければ、事務所でのキャロルの発言に説得力など生まれるはずがない)。第三に、ラストである。恐らくテレーズが自主的に歩くシーンはこの三つであろう(氷を取りに行くシーンはテレーズではなく男を映すことが目的である)。加えて、テレーズが車を降りてキャロルをカメラに収めようとしたシーンを数えてもよい。

 

・再訪、手と視線

 カメラに触れたので補足しておけば、テレーズが写真家志望であるという設定もまた、この映画が自覚的に「手」と「視線」の映画であることの帰結である。曇りガラス越しに何かをぼんやりと見ることが極めて多いこの映画で、明らかに視線をガラスに遮断されることを拒否し、車から降りて、カメラという眼でキャロルを見て、その手でシャッターを押すことを選択するテレーズは、以前ダニーにいわれていた「人間に興味を持つこと」をキャロルに教えられるのである。したがってキャロルがカメラをプレゼントすることもまた「視線」という主題を明確にしている。考えすぎだと思うだろうか? しかし原作を読めばすぐにわかるように、原作と映画においてもっとも異なる点は、原作ではテレーズは舞台芸術志望であるということだ。この設定を変えて写真家志望にすることは、果たして偶然といえるのだろうか。行き交う二人の視線は、きょろきょろと目を動かすテレーズによって、やや不安定なものとなっているが、それもラストシーンのための布石であり、またそれだけに、厳密には視線は交わってはいないものの、ハワード・ホークスヒズ・ガール・フライデー」に典型的にみられるように二人が電話をするショットでの切り返しも感動的になるのである。

 

 

 

 

・外界による枠づけから解放する車、あるいは二人の船出

 ハリウッド映画の伝統に忠実に、この映画において車は極めて重要な道具である。なぜなら、先ほど述べたようにテレーズが誰かの運転する車に乗せられるだけであって自らの意思で動くことがないという演出に加えて、キャロルとテレーズを外界から隔離し、二人を自由にする空間だからである。いささか身分違いともいうべき二人は、旅行以外で外で会うときにはデパートの従業員と客、あるいは家に招かれた客とハージの妻、久しぶりに再会した女性二人という、よそよそしい立場あるいは距離感でしか会う事ができない。テレーズが東欧系の移民であり、家族との交流もほとんど描かれない孤児のような存在であることも想起しなければならない。キャロルの家でテレーズがピアノを弾いているとき、そしてキャロルがリンディとクリスマスツリーの飾りつけをしているとき、またキャロルがテレーズの自宅を訪れたとき、いずれもキャロルは画面上で四角い枠の中に収められている。この枠は、キャロルが決して自由な立場ではないことを表しており、さらに枠の大きさは、人物間の関係性をそのまま表していると考えられる。すなわち、裕福な郊外に住むキャロルの家にテレーズが訪れることはごく自然なことといえるから、そこではこの枠は比較的大きい(しかし直後にハージが訪ねることによってこの自由はすぐに失われる)。またキャロルがリンディと二人で飾り付けをしているとき、この二人は切り離される運命にあり、またテレーズにとっても、一客人でしかない自分と、キャロルとリンディという親子では全く関係性が違うから、そしてその親密さにテレーズはやや場違いであるから、枠は必然的に狭くなる。キャロルがテレーズの自宅を訪れることは身分違いとさえいえ、不自然であるから、玄関でのキャロルは極めて狭い枠にしか収まっていない。そのためにキャロルは贈り物のキヤノンのカメラを足で押し出すしかないのである。車はそうした人物を枠づける外界、すなわち身分や立場や境遇や性的指向から断ち切る親密圏として機能している。車で旅行する、このときほどキャロルが自由であるときはない。

 

 この意味で、二人が初めて情愛を交わすシーンは象徴的である。キャロルは画面左の洗面室の鏡に写る自分を見て、やや思いつめたような表情であるが、この洗面室は、明らかに枠づけられた空間として機能している。ここではいまだ外界による枠づけ、すなわち同性愛は「病気」であり、ましてやまだ20歳になるかならないかの娘とそのような関係を持ち、そこに引きずりこむことは―「あなたの気持ちに答えただけ」というセリフからわかるように、それがキャロルにとっては容易であると最初から分かっていたからこそ―危険であり、彼女を不幸にすることになりうるという社会的規範が機能している。しかしキャロルが洗面室の電気を消すと、右の白い壁には、大海原を航海する帆船の絵がかかっているのである。枠づけられた外界から出て、自由な親密圏へと移行すること、このような当然のことが、当時は普通ではなく「病気」であったし、現在でもそのような差別的見解や偏見は消え去ってはいない。こうしたメタファーの前を通ってキャロルは、テレーズの座る椅子の後ろに立ち、二人で鏡に写る自分たちを見るのである。この視線の交錯において、お互いの手を握り合うのが当然であることは、この映画が「視線」と「手」の映画であると既に述べた通りである。

 

ジェンダーと即自、対自

 ところで同性愛の描写において、この映画はそれほどタブー感を出しているわけではない。実際にはリチャードをして語らせているように誰もが「そういう人がいるのは知っている」というわけで、身近な人が同性愛者であってもことさらに差別をするのではなく、「治療」させたり、「そういう人には何らかの背景があるんだ」と理由をつけて納得しようとするのである。これは「エデンより彼方に」でも同様であった。むしろこの映画に登場する男たちの存在感の無さは強烈である。キャロルの夫のハージは、アビーに「キャロルを飾り物としてしか見なしていない」と一喝され、一度ならず扉を眼前で閉められる。テレーズの婚約者リチャードもまた救いようのない即自的人間であり、自らがテレーズに愛されるべき存在であり、テレーズがそうしないことを何かの間違いであるかのように素朴に信じ込んでいる。ダニーもテレーズにキスをしたことを何か重大なことであるかのように考えており、それについて的外れなことばかりをテレーズに投げかける。そしてリチャードもダニーも当然のように隣にはテレーズではない女性を侍らせることができる。彼ら男性たちは一度たりとも鏡など見ない。鏡を見るのはキャロルとテレーズだけである。自らに向き合うこと、すなわち対自的存在となる契機を与える道具こそが鏡なのである。

 

・恋は盲目?

 「恋は盲目」など嘘である、とこの映画は主張している。キャロルと旅行へ行くことをリチャードになじられたテレーズが「今ほど目が覚めたことはないわ」と言い返すように、自らの欲望を明確に知ることこそが目を見開くことなのであり、被写体をカメラにおさめるということなのであり、その意味でこの映画が視線の映画であるということもまた当然なのである。