ブログ三銃士

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中学国語教科書を読む―その8―

 平成24年度版中学校国語教科書『中学生の国語』|三省堂「ことばと学びの宇宙」

 

 今回は前回に引き続き「表現力」の単元。見開きコラムの「類義語辞典の活用」も読み飛ばさずに読む。ここでの問題は次のようなものである。

 

 「―線部の「推量」という言葉が少し不自然な気がしている。下の辞典を手がかりにして、より適切な言葉に直してみよう。」

 

ここでの例文を抜粋すると、

 

①彼女の真意を自分なりに「推量」すると、次のようになる。

②古代遺跡は、一緒に出土する土器の形や模様などによって、その年代が「推量」されるのだという。

 

 面白そう、と中学一年生は思わないかもしれないが、なにか文章を書こうとすると、自分の癖のようなものがどうしても出てしまい、同じ言葉や言い回しをついつい使ってしまうのはよくあることだ。語彙の貧弱さは、それに気付く人を憂鬱にさせる。この例文は、確かにおかしい気がする。特に②は不自然だ。年代が推量されるとは多分言わない。でも①はどうか? 気持ちを推量する、とはいわないだろうか。古文ではだいたい何でもかんでも「推量の助動詞」と習ったのではないだろうか。

 

 おかしいとしても、なぜおかしいのかを説明することは案外難しい。②でいえば、数字やデータのような客観的な指標について「推量」は使わないのではないかという気がする。たとえば人の年齢を「推量」するとは言わない。では「推量」とはどのようなときに使うのだろうか。なによりもまず、そもそも「推量」ってことばを使うだろうか? 「推量の助動詞」以外で「推量」という言葉を発したり書いたりしたことが生まれてからこの方あっただろうか? ちょっと不安になるけれども、それにもかかわらず、僕たちは「推量」という言葉の使い方が何となくおかしいとか、おかしくないとか感じることができる。

 

 教科書に載っている「類義語辞典」によると、推量の類義語として「推察」「推量」「推測」「推定」があり、関連語として「察し」「斟酌」「推断」があるらしい。しかし「類義語」と「関連語」の区別もよくわからない。推量の類義語として推断を数えてはだめなのだろうか? 「推理」も類義語に入れてはだめなのだろうか? そうした疑問も沸きつつ、この辞典のまとめをみると、

 

「推定」は何かの根拠や理由があって思う場合

「推量」ははっきりした理由がなく漠然と思う場合

「推測・推察」は他者の気持ちや事情を思う場合

 

 だという。「したがって、①は「推測・推察」、②は「推定」が適切だといえます。」そうすると、次のようになる。

 

①彼女の真意を自分なりに「推測・推察」すると、次のようになる。

②古代遺跡は、一緒に出土する土器の形や模様などによって、その年代が「推定」されるのだという。

 

 ②は確かに「推定」の方が良さそうだ。遺跡の年代はきっと「推定」というし、「推定年齢」とかもいう。①はけっこう微妙ではないか。他者の気持ちを「察する」とはよくいう気がするから、他者の気持ちを「推察」するというのも分かる気がする。他者の気持ちを「推測」するはどうだろう? 気持ちを推測するって、いうだろうか? う~ん、いうかもしれない。でも、推測と推量の違いは測と量だが、測量という類似した字を組みあわせた熟語だってあるではないか。なぜ推量だけが区別されなければならないのだろう。一部の辞書で「推量」を調べると「推測」と出てくることもあるし、ネットで調べた「デジタル大辞泉」では「胸中を推量する」という例文だって出てきた。これは他者の気持ちを思う場合にあたるではないか。「推量」とは「広く推しはかること」らしいが、推量の意味は「推し量る」ことと言われても、反復でしかないので、あまり役には立たなそうである。そもそもこの定義から「はっきりした理由がなく漠然と思う場合」というまとめ方は正しいのだろうか? はっきりした理由がなく漠然と思うような場合に「推量」って使うだろうか? 結局「推量」っていつ使うの? 

 

 「推量」と「推測」の定義はどうやらかなり曖昧だ。他の類義語との用法も曖昧な気がする。もちろん本来は、一つの文や文脈の中でこうしたことばがどのように機能しているかということも考えなければならないのではあるが、「推量」の仲間はずれ感に思わず怒涛の質問攻めを先生にしたくなる。これだけ「推量」「推量」言っていると、「推量」という言葉を正しく使った例文もあまり思いつかないような気がしてくる。「推量」を違う類義語に代えて適切な文にするのであれば、そのまさに代えられた「推量」という言葉を使って正しい例文をつくるという課題も同時になさなければならないだろう。

 

 ところで、定義では「推定」は「何かの根拠や理由があって思う場合」であり、「推測。推察」は「他者の気持ちや事情を思う場合」であった。仮に「推量」が「推測」とそれほど違わないのだということを前提にすれば、「何かの根拠や理由があって、他者の気持ちや事情を思う場合」は「推定・推測・推察・推量」を同時に用いることができるはずである。すなわち一つの文のほかのことばを一切変更せずに、「推定・推測・推察・推量」だけを入れ替えても不自然にはならない文が存在するのではないか? こうしたことを考えていくと、日本語ということばの内部でも、いわば翻訳とでもいうべき問題が、類義語には存在しているように推量できる(この「推量」はどうだろう?)。

 

 最後に宿題を出したい。もちろんこの教科書に載っているものであるが、つぎの例文において「」内の言葉を「より適切な他の言葉」にいいかえるというものである。

①審査員は非常に穏やかな「論調」で語りだした。

②祖父は昔かたぎの性格だったので、どんな申し出も「強情」に断り続けた。

 13歳くらいに推定された年齢の中学生のためにこのコラムを執筆した人の心情を推察しながら、答えを推測していただきたいと僕は推量する(=はっきりした理由がなく漠然と思う)。