ブログ三銃士

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中学国語教科書を読む―その9―

 平成24年度版中学校国語教科書『中学生の国語』|三省堂「ことばと学びの宇宙」

 

 今回の第9回にしてようやく一つの文章を読むことができそうだ。いかに教科書を読み飛ばさずきちんと読むというのがコンセプトであるとしても、かなりのスローペースである。「国語」といったらやはりコラムや俳句よりも文章読解を思い浮かべる人が多いだろうから、そういう人にとっては今回でようやく「国語教科書を読む」というシリーズらしくなってきたと感じられるはずだ。しかしこの連載は、そうした一般的イメージとは少し離れて、国語教科書そのものを、なるべくそうした先入観で選り分けずに読むことで、国語教科書なるものの別の読み方を探ろうとするものでもある。

 

 今回読むのは岡崎稔の「水田のしくみを探る」である。筆者はどうやら水を専門とする大学教授のようだ。

 

 しかし、はっきり言ってこの文章はつまらない。この回を書くために一読してみて、「うわー、つまんねー、どうやってこれについて書こうかな」と少し呆然としてしまったくらいである。もちろんこれは筆者が悪いのではなく、これを教科書に採用した側の責任だ。もしかしたら僕が「水田」に興味がないからかもしれないが、それだけではないように思う。

 

 まずこの文章の位置づけであるが、「課題をもって読もう 筆者の説明にはどのような工夫があるか考えながら読む」ということになっている。要するに「第一に、第二に、というように順序良く述べている」とか「図やグラフを使っている」ということに気付けばよいのだろう。こうした点は、本を読むうえでも文章を書くうえでも確かに必要である。ただそれだけじゃちょっとね…という話である。

 

 何がそんなにつまらないか考えてみると、恐らく、最も肝心な冒頭がよくない。つまり「「水田にはどのような智恵が集まっているのだろう。」と問いかけたら、ほとんどの人は、水田に知恵などあるのだろうかといぶかしく思うでしょう。」から始まり、「いったい、水田はどのように作られているのでしょうか。」というような導入になるけれども、これに全く興味を惹かれない。「どのような智恵が集まっているのだろう」とか「どのように作られているのでしょうか」という問いでは抽象的すぎるために、水田に特に興味がない僕のような中学一年生にとって、この文章自体を読もうという動機に欠けるのである。実際、「どのような智恵が」とか「どのように作られているのか」という問いは水田でなくても成立する問いであり、その意味でこの導入は、「水田」そのもの、この文章自体を読ませるための問いにはなっていないのである。

 

 国語教科書に載っている、いわゆる「説明文」の名作は数多いが、思い出深いものは、小学三年生の「ありの行列」である。これは本当によくできた説明文で、教科書界でも恐らくかなりのロングランを続けているはずである。だから知っている人も多いだろう。この説明文の冒頭はこうだ(番号は便宜的につけた)。

 

①夏になると,庭のすみなどで,ありの行列をよく見かけます。

②その行列は,ありの巣から,えさのある所まで,ずっとつづいています。

③ありは,ものがよく見えません。

④それなのに,なぜ,ありの行列ができるのでしょうか。

 

 これこれ、と言いたくなるすばらしい冒頭。①で「確かにねー」となり、②で「あ~そういえばそうだね」と情景をイメージできる。③で「えっ?そうなの?」ときて④で「ほんとほんと、なんでなんで?」である。この完璧な流れ。この後も勿論面白い。ここで先ほどと少し重複するが、今回取り上げた説明文の冒頭を読もう。

 

 「水田にはどのような智恵が集まっているのだろう。」と問いかけたら、ほとんどの人は、水田に知恵などあるのだろうかといぶかしく思うでしょう。(水田が紀元前に中国から日本に渡ってきたことが書かれる。)しかし、水田はプールのように水をただため込んでいるだけでも、砂場のようにただしみ込ませているだけでもないのです。いったい、水田はどのように作られているのでしょうか。

 

 冒頭で僕は水田には興味がないと書いた。しかしそれと同じくらいアリにも興味はない。この点、多くの人は僕と同じなのではないだろうか。ただ、二つの説明文の冒頭を読み比べてみれば、どちらを「面白い」と感じ、読んでみたいと思うだろうか。圧倒的に「ありの行列」のほうが面白そうではなかろうか? この点も多くの人は僕と同じだと思う。これは単に「ありの行列」が小学三年生用の国語の教科書に載っているから、という理由によるのではない。たとえば、今後一生教科書には、少なくとも小学生や中学生の教科書には載らないであろう野家啓一パラダイムとは何か』(講談社学術文庫)の本論冒頭はこうである。

 

「<科学>殺人事件」の公判を開始するにあたって、まずは被告人であるクーンの「人定質問」から始めることとしよう。 

 

 適当にその辺から探したので、もっと良い例があったかもしれないが、興味のひき方がいかに重要かを示すには十分だろう。別にこの「水田のしくみを探る」がそれ自体として悪い文章というわけではない。水田に興味を持つ人ならば楽しく読めるはずだ。そうではなく、ひとつの文章を読むという「国語らしい」授業の最初にこのような文章を読み、しかも「筆者の説明にはどのような工夫があるか」という観点から読むという位置づけが問題である。ひとつの文章にはふさわしい冒頭が必要であるのと同様に、教科書をどのような文章から読み始めるかということも大きな影響をその人に与えるのではないか。(僕のような人間をのぞいた)多くの人にとって教科書は自発的に読むものではないということを忘れてはいけない。