ブログ三銃士

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シネマディクトSの冒険~シュウの映画時評・第7回「バケモノの子」~

細田守監督「バケモノの子」(16:9・119分)

 

 

 

・くじら

 始まってすぐの渋谷スクランブル交差点を緻密に再現したシーンにおいて既にビルの画面にくじらが映っており、細かな点に周到な伏線を配していることが見てとれる。九太の部屋から「白いくじら」という絵本が運び出され、くじらの絵が描いてあるカレンダーがみえるのも同じことだ。メルヴィル「白鯨」の解釈だけでは、くじらというモチーフを持続させる求心力は弱いといわざるを得ないが、対決シーンでのくじらは文句なしに美しい。

 

・非血縁の親子

 この物語の主題は親と子の関係性であり、しかも両親となる存在は血縁でつながっているわけではないという点が問題となっている。バケモノとは非血縁者の言い換えだ。九太は親しんでいた母親が死に、一人で生きることを選択したことからバケモノの住む渋天街へ転がり込み、熊哲という師匠、すなわち擬似的な父親を得ることになる。渋天街に入った直後の九太は鼻が豚のように上を向き、四つんばいになって這い回ることで、バケモノの世界に溶け込んでいくことが示されている。そうして熊哲は父親のつもりで九太に接し、九太は悪態をつきながらも強くなるために熊哲との関係を深めてゆく。しかし「強くなりたい」という九太の願いは、どのような強さかを問うこともないという点で幼く、また強くなりたいその動機が憎しみであるという点で歪んだものであったから、いかに武芸に熟練するようになり、渋天街が自分の居場所かのように思えるようになったとしても、そのままで済むわけではない。様々な「強さ」を知る旅に出るだけでなく、熊哲のもとを一旦離れる必要も出てくることになる。ついには人間界に戻って、今度は擬似的な母親となる楓に出会うことになるのである。両親に見放されたことによる自己疎外感を埋め、熊哲の真似をするように勧めた母親のように自らを導いてくれる第二の段階として楓がある。

 したがって熊哲と楓とのつながりは深い。血のつながった父親の存在感は再会してからも当初は希薄である。九太が熊哲と大喧嘩し、「父親のところで暮らす」と出て行った直後に映し出される、極めて美しい入道雲は、その後に熊哲が座りながら見ていたものと同じものだ。血のつながった父親との関係は、擬似的な父親と母親によって一度親子関係が回復された後にはじめて取り結ばれるのである。バケモノ「の」子であるとともに、The Beast “and” the Boyであるゆえんがそこで理解される。

 

・一朗彦の歪みとはなにか

 対照的なのは一朗彦だ。一朗彦もまた「強くなりたい」という願いを持っていた。しかし自らが人間であることを成長するにつれ嫌でも感じざるをえない一方で、バケモノであるアイデンティティを手放せないために歪みが生じていた。しかも偉大な父親の存在と、明らかにバケモノである弟の牙によってその歪みは増幅される。次郎丸が、熊哲から逃げて人間界へ初めて戻ることになる途中の九太に自宅への誘いを断られるシーン。そこでは次郎丸の成長した牙がはっきり映し出される。対照的に一朗彦は口元を隠すようになっており、次郎丸が何気なく牙に手をやる仕草をみて、ショックを受ける様子も克明に描かれている。このような一朗彦が、擬似的な父親と母親を得て歪みを修正してゆく、すなわち成長してゆく九太に対して嫉妬し、さらに歪んでゆくのは当然の成り行きであった。こうした機微を、細田守は繊細かつ巧みな伏線をもって説得的に描き出している。

 

・「心の闇」

 すなわち本作の主題となる「心の闇」とは、親と子との関係性を築くことのできない子どもが持つ憎しみや疎外感のことである。両親が存在するにもかかわらず、彼らは自分の気持ちを分かってくれないと嘆く楓も―極めて類型的で凡庸だが―「心の闇」を抱えているのである。本作においてこうした主題は見事に描かれている。しかし批判すべき点もある。まず、こうした主題や心情をほとんど登場人物が語ってしまうのは端的に越権行為であり、あの魅力的に広がってゆく入道雲のようになるべき物語を限定してしまった。そして「心の闇」の描き方は安易で平板である。敵に対してどのように立ち向かうかに重点が置かれすぎて、その立ち向かうべき対象が妙に薄っぺらい。

 

・細田映画の思想上の限界?

 本柵と似たような主題を描いた「サマー・ウォーズ」も「おおかみこども」も、本作も、結局家族、親子、血縁の重要性や優しく見守る母親像という点で共通しており、しかもそれは伝統的に今まで当然のものとされてきた思想である。もちろん、本作では非血縁の親子関係、「おおかみこども」では異形の親子関係というように、その主題は単なる血縁ではないのだけれども、本作においてもやはり「本当の父」、「おおかみこども」においてもやはり血縁から離れられていない。こうした血縁や家族への細田のこだわりは明らかであるが、思想上のスケールの大きさは―安易な比較であると批判されることを覚悟で言うが―宮崎駿には遥かに及ばないだろう。心の闇、魂が宿った剣などという、いかにも手垢がついたような道具立てを用意するしかないのだとすれば、それは細田の限界を示しているといわざるをえない。