ブログ三銃士

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シネマディクトSの冒険~シュウの映画時評・第8回「山河ノスタルジア」

ジャ・ジャンクー「山河ノスタルジア」(スタンダード・アメリカンビスタ・スコープ/125分)

 

www.bitters.co.jp

 

・かなしみ≠悲しみ

 いささか時代の隔絶を感じざるをえないという意味で突拍子も無い冒頭のペットショップボーイズ「Go West」で踊る主演チャオ・タオのシーンから落涙してもおかしくはないこの映画は、まさにその時代なるものを身体、そしてスクリーンに刻印してゆくことで、人間の持つかなしみをも刻み付ける。間違っても悲しみではない。この映画は人間のかなしみを描いている。

 

・スクリーンと世界

 時代に沿ってスクリーンサイズを変更するという演出は、ウェス・アンダーソングランド・ブダペスト・ホテル」が近年試みたところであるが、「山河ノスタルジア」でのその演出の意図もまた、時代の変化をスクリーンサイズで映し出そうとしている点では同じである。しかし、「グランド・ブダペスト・ホテル」におけるそれが、スクリーンサイズによって時代を表現するというものだったのに対し、「山河ノスタルジア」は、スクリーンサイズの広がりが、世界の広がりをも意味しているという点で異なっている。

 

ジャ・ジャンクーと「世界」

 世界の広がり、というところからジャ・ジャンクーの「世界」を想起するのはたやすい。というよりも、「山河ノスタルジア」は、「一瞬の夢」や「プラットホーム」といった初期の作品から、「青い稲妻」や「世界」、最新作の「罪の手ざわり」まで至るジャ・ジャンクーの傑作群を思い出させる断片であふれている。そのいちいちに言及することは野暮であるし面倒でもあるので、「罪の手ざわり」において、第一話の主人公ダーハイがつとめていた職場の建物が、リャンズーの住居として用いられていること。また、投資家として成功するジンジェンが同作におけるダーハイのかつての同級生と重ね合わせられることだけを指摘しておけば十分であろう。もっとも、地球上のモニュメントを再現するテーマパークにおける世界の狭隘さと、それにともなうチャオ・タオの孤独を描いた「世界」との重なりは、おそらくジャ・ジャンクーにおいても最も意識されていたに違いない。「世界」におけるロシア人の踊り子アンナとチャオ・タオとの交流が、共通言語なしに成立したのであるのだから、彼女と息子との間には共通の音楽体験でもあれば十分なのである。そして、中国や自分の故郷がいかなるところなのか、いかなる人間がそこに居るのか、というジャ・ジャンクーの一貫した問題意識は、本作においても独特なかたちで提出されている。

 

・飛行機の墜落と故郷を持たない資本

 スタンダード・サイズで撮られた第一部において、チャオ・タオは飛行機の墜落を思いがけずに目撃することになる。いささか唐突にも思われ、しかも特に劇中で触れられることもないこのシーンは、しかし、重要な意味を担っている。チャオ・タオはどこまでもその土地に縛りつけられ、ないしは住み続け(これもジャ・ジャンクーらしい主題であるが)、離婚して外国、最終的にはメルボルンへ移住する元夫や、それに連れられる子どものダラーとは対照的な人生を送るのである。彼女を象徴的に表すのは故郷の高い塔とヒットソングと餃子であり、他方で元夫と子どもを象徴的に表すのは、ダラーという米国通貨になぞらえた名である。資本に国境はない。それと同時に、元夫やチャオ・タオの息子ダラー、そして高校教師を演じるシルヴィア・チャンのように、アイデンティティを喪失した者はそもそも故郷に無邪気に存在し続けることはできない。

 

・オイディプス?

 ところで、確かに満足に母の記憶もないまま放浪の旅に出たダラーが、ほぼ母と同年齢のシルヴィア・チャンと恋愛関係になる点に、オイディプス的主題を見出すのは道理である。父親と拳銃という不穏な組み合わせも、この解釈を補強する。しかし、父親はダラーがとどめを刺すまでもなくすでに生ける屍のようになっていることと、シルヴィア・チャンもまた故郷を喪失した者であることを考えれば、オイディプス的主題を強調することにあまり意義はなさそうである。

 シルヴィア・チャンはむしろ、かつて母とともに聞いた音楽をダラーに聞かせ、鍵の存在を思い出させ、「時が全てを変えるわけではない」という言葉をダラーに投げかけることのために存在すると考えたほうがよい。ダラーがシルヴィア・チャンに食事を届けるというのもチャオ・タオとの餃子を考えれば示唆的である。シルヴィア・チャンがチャオ・タオの分身だとしても、そこにオイディプスの悲劇性は存在しない。その証拠に、スコープ・サイズとなった第三部において、車のそばに立つ彼らの後ろ、すなわちスクリーン右側から、素晴らしいタイミングと速度でヘリコプターが通り過ぎるショットは、息を呑むほかない爽快さ、ないしは希望を示している。

 

・ラストシーンのかなしみ

 「時が全てを変えるわけではない」という言葉を額面どおりに受け止めるわけにはいかない。この映画では全てが変わっているようにみえるからである。「親子の絆」などスクリーンのどこにも映し出されてはいない。確かに音楽や鍵、餃子といったアイテムや、テレパシーのような声が聞こえるけれども、結局ダラーたちが旅行を断念したように、それはむしろ隔たりを感じさせる。ダラーが安易に「親子の絆」に頼ることはできない。何もやりたいことがないという彼の虚空をまずは埋めなければならないし、たとえ埋めようとしたところで恐らく今後母親と会うことはないのではないかという念さえ禁じえない。分身のようなシルヴィア・チャンにもう出会ってしまったからである。確かに時が全てを変えるわけではない。しかしこの言葉は同時に、時が変えてしまうものも確実に存在することを意味している。だからラストシーンにおいて、かつてと変わらない城壁と塔を前にして、ペットショップボーイズ「Go West」を踊るチャオ・タオに白雪が降りかかるのを、我々は涙なしで観ることはできないのである。

 必見。

 

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