ブログ三銃士

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シネマディクトSの冒険~シュウの映画時評・第9回「ジュラシック・ワールド」

ジュラシックワールド」(2015)コリン・トレボロウ監督(アメリカ・124分・スコープ)

 

 ・「見る」と「見られる」

 恐竜は見るものであって、恐竜に見られることはない。これこそがシリーズ一作目の傑作「ジュラシック・パーク」を貫くモチーフであった。この視線をめぐる一貫した意識があるからこそ、この構図を逆転し、動物園の動物のような存在であったはずの恐竜に「人間が」「見られる」ことで、動物園の生き物から捕食者となった恐竜の恐怖と、動物園の観察者から被捕食者となった人間の恐怖を描くことができたのである。そしてその意味で、実は、恐竜を人間が見るという当初の構図そのものが逆転したものであったことを明らかにするのである。

 なぜ本作が失敗に終わったかの原因は単純にこの点の意識が欠如していたからである。観客そして人間が一方的に恐竜を「見る」演出がなされているのは、海に棲む超巨大な恐竜に餌を与える場面がほとんど唯一のものだが、その反転としての「見られる」は存在しない。そもそも重要な役割を果たすことになるこの海洋恐竜の目が描かれていないのは象徴的である。どのように後にこの恐竜が登場するかまではここで語る必要はないが、その意味でしかるべき登場の仕方でなかったことだけは確かである。

 

・インドミナス・レックスの失敗、ラプトルの失敗

 目玉であるはずのインドミナス・レックスも、全く見られる存在としての恐竜ではなかった。むしろ知能が高く、監視しているはずの人間を見る存在かのように描かれているのである。確かに一作目においても最初はティラノサウルスは姿を見せない。しかし、インドミナス・レックスのような特別な恐竜としてではなく、人間が警戒して目を光らせている中で、それを踏まえて恐竜をあえて見せない演出が周到になされている。そうであるからこそ足音や山羊の骨、影によって逆説的に恐竜を見せることができた。知能の高いインドミナス・レックスを制御できる気配すらなく、すでに人間が把握しきられているような本作とは意味合いが全く違うのである。したがってインドミナス・レックスが脱走するのも予定調和であり、人を次々と襲うのも単なるモンスター映画と同じ意味でしかなく、恐竜である必然性すらない。

 「見つめ合う」関係が巧みに構築されていたラプトルの場合は、こうした構造が確かに生かされる展開となったが、それは視線の演出ではなく、単なる信頼関係の表現でしかなかった。ラプトルのインフレと行動の一貫性の無さがこれを裏付けている。恐竜が出てきさえすればよいとでも言わんばかりの画面は、生き物への畏敬というよりは、むしろジュラシック・ワールドの傲慢な経営者を思わせる。表面的な一作目への目配せなどはどうでもよい。一体いかなる演出がオリジナルの前提となっていたかをよく考えるべきである。

 

・人間の不在

 したがって二頭のティラノサウルスを闘わせたからといって映画になるわけでもないのは当然である。どちらが勝ったとしても結局危機的状況には変わりないのではないかという疑問は野暮だとしても、どちらがどちらなのかが一見して分からないのは致命的である。要はどちらでもよいのだ。この対決シーンでは人間がもはや「見る」観察者でも、「見られる」だけの被捕食者ですらなく、見ていようがいまいが、見られていようがいまいが何の関係もない石ころ同然の存在に成り下がっており、もはや画面には恐竜しか存在しなくなる。この意味で人間不在の映画である。家族のドラマパートも無駄に等しいから、結局全編にわたって人間は不在ということになる。この映画には最初から傍観者しか存在しなかった。被捕食者すら実は居なかったのである。

 恐竜やモンスターと人間を描くということは確かに容易なことではない。しかし、同じように二頭の巨大なモンスターを登場させながらも、それまでの怪獣映画の位相をずらすようなしかたで行い、人間をも描ききったギャレス・エドワーズの傑作「モンスターズ」でのラストシーンを観た者であれば、「ジュラシック・パーク」以後、ドラマもなく演出もなく、そして人間も居ない、ただモンスターとしての恐竜だけがいる映画を許してはならないはずである。