ブログ三銃士

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シネマディクトSの冒険~シュウの映画時評・第10回「ホース・マネー」~

ペドロ・コスタ「ホース・マネー」(2014・ポルトガル・スタンダード・104分)

 

www.cinematrix.jp

ペドロ・コスタの倫理

 カーボヴェルデの移民たちが、ヴェントゥーラ自身の肉体に比喩的にではなく刻み付けられているのと同程度に、そして初期作『血』『骨』をはじめとして歴史的傑作『ヴァンダの部屋』、『コロッサル・ユース』から本作まで、一貫してヴェントゥーラやヴァンダのような移民たちと彼らが暮らしている(いた)フォンタイーニャスを撮ってきたペドロ・コスタの歴史と人間そのものに対する関心の深さと同程度にこの映画についてなにかを語るということはできそうもない。しかしこの断念は、本作について「深く」何かを書くということの断念ではない。かといって単なる表層批評の肯定でもない。ペドロ・コスタの尋常ならざる倫理性こそがこの映画について語ることを困難にし、ただひたすら感得するしかないものにしているのである。どういうことか。

 

・ヴェントゥーラ

 ヴェントゥーラは病院の中にいる。そこは、暗く深い地下道のような通路を通り、鈍い色をした無機質としかいいようがないエレベーターが一切の想像を妨げる権力的な空間である。ヴェントゥーラは思い出している。そこにはかつて共に働いた友人たちが居り、かつて戦争に参加した自分が居り、クーデターに直面した自分が居る。ヴェントゥーラは歌う。かつて搾取され続けた、今は廃墟となった建物で、名前をつけた子と懐かしい歌を歌う。しかし歌詞が合わず、ヴェントゥーラは無言でその場を去る。ヴェントゥーラは手紙を書く。夫をなくしたと嘆く未亡人に。そしてその夫からだと言って手紙を渡す。ヴェントゥーラは語る。鈍い色をした無機質としかいいようがないエレベーターの中で、クーデター派の兵士に対して。そして全編においてヴェントゥーラの手は震え続ける。

 

・慎みと畏れ

 ひたすら書き連ねるほかないこの映画の数々のシーンは、全てヴェントゥーラの肉体と行為であり、ナレーションもなければ文字もない。そこにあるのは語りと歌である。ヴィタリナが、彼女と夫に関する味気ない公文書を読み上げながら涙するシーンにおいて、文字には何の意味もない。この映画において時系列は存在しない。老いたヴェントゥーラが19歳と自称すること、回想かと思われるシーンにおいても老いたままであることはその証左である。この寡黙さこそがペドロ・コスタの倫理に他ならない。つまり、ヴェントゥーラの、ひいてはカーボヴェルデ移民の記憶を自分が雄弁に語ることなどできるはずもない、それは必然的にペドロ・コスタによる、文字に基づく語りを含まざるをえないという慎み。そして予め整理された記憶を提示すること、すなわち歴史を書くということなど、部外者たるペドロ・コスタができるはずもないという畏れである。このようなペドロ・コスタの倫理に照らせば、なぜ写真が印象的に用いられているかも理解することが出来る。映画を撮るという行為と真っ向から対立しうるこのような倫理を持つにもかかわらずペドロ・コスタにこのプロジェクトを完遂させたのは、恐らく一種の罪悪感とそれ故の使命感、そして何よりも映画という表現形式への信頼ではあるまいか。

 

・表層の感得

 ペドロ・コスタの倫理性は以上のようなことである。したがって、われわれはそう安易にヴェントゥーラやカーボヴェルデの移民たちについて語ることはできない。ただひたすら彼らの語り、身体、歌を感得すること、その限りにおいて表層を見ることにとどまらなければならない。それは『ヴァンダの部屋』そして『コロッサル・ユース』で必然的に我々に強いられていた―それゆえに自覚化されにくい―態度なのである。