ブログ三銃士

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中学国語教科書を読む―その1― シュウ

平成24年度版中学校国語教科書『中学生の国語』|三省堂「ことばと学びの宇宙」

 

 小学校、中学校、高校と、必ず全教科について教科書があったけど、あまり丹念に読んだ記憶はない。ページを飛ばしたり、先生オリジナルのプリントを使ったりして、身近でありながら実はほとんど読んだことがないという場合が多いんじゃないだろうか。勿論科目によって差はあるんだろうけど。例えば算数や数学はほとんど教科書は使わないだろうし、国語や英語はかなり使う頻度が高かったように思う。

 個人的な、しかも平凡な経験を語れば、僕がその質においても量においても最も読んだのは国語の教科書だった。これは国語が好きだったからというよりも、授業中暇でどうしようもなかったからだ。国語の授業がなぜあれほどつまらなく感じたのか。早熟だったんだろうか。内容なんて一読して全部わかっていると思い込んでいて、それを露骨に態度に出していたので、先生からするとかなり嫌な生徒だったように思うけど、子どもに対して大人げないと怒ることはできないから、あまり反省する気はない。そんな小学生の頃から本を読むのは好きだったので、こっそりと自分の本を読んでいることも多かったが、国語の教科書であれば堂々と文章を読んでいられるから、かなり読んだと思う。だから小学校や中学校の国語の教科書(たしか光村か東京書籍だったと思う)に載っていた文章はたいてい覚えている。

 そんな国語教科書への偏愛から、他の会社の教科書も読んでみたい、今読んだら何を思うのだろう、と気になってきたので、とりあえず一番安い三省堂のものを買ってみた。本当は出版社によってテクストの質が全然違うので迷ったが、まぁそんなに肩肘張ったものでもない。小学校から読み直すのはちょっとしんどいので、中学一年生から。教科書はどんな科目でも大体500~900円で、この三省堂は全て500円くらいだ。2016年から教科書が改訂されるので、2016年のものと読み比べたい気もするけど、とりあえず2015年現在流通しているものを読んでみたい。1ページも飛ばすことなく、適当に思ったことを書き散らしてみる。

 三省堂の教科書は、けっこう大きい。A4くらいか。高校生になると軒並み教科書が小さくなり、字も小さくなるので、教科書としては大きく感じられる。文字が大きいので読みやすくていい。表紙に大きな木の写真がある。屋久杉だろうか。最初の単元は「伝統的な言語文化 言語文化にふれる」ということになっている。中学一年生の国語、最初のテクストは、草野心平の詩「春のうた」だ。こういうテクストの選定はどうやって行われるんだろう。今度石原千秋に聞いてみようか。

 草野心平は1903年福島県出身の詩人で、兄も弟も詩人らしい(Wikipediaは本当に便利だ)。草野心平について僕が知っていることといえば、カエルをモチーフに詩を書くのが大好きだったということくらい。この「春のうた」もかえるの詩である。詩の全部は載せることができないが(でもネットで検索すればすぐに見つかる)、さすがに中1が最初に読むからか、短くわかりやすい言葉で綴られている。光村の小学4年生の教科書にも載っているそうだから、まぁことばの難易度としてはそれくらいなんだろう。かえるが冬眠を終え、土から出てきた日に春が到来したことを実感するというような詩だと思うが、一行一行に句点「。」がついていて、これはなぜなのか不思議に思う。詩ってそんなに句点をつけるんだろうか。「ほっ まぶしいな。ほっ うれしいな」とのどかに始まる。「ケルルン クック。」というカエルの鳴き声の表現は不思議だ。カエルの鳴き声は擬音語にするのが難しい。「ケルルン クック」でないことだけは確かな気がするが、かといって他に思いつく気もしない。草野心平ならもっと前衛的なものが他にあるし、これは特にいい詩であるようには僕には思えないが、こういう自然を感じさせるものは選びやすいのだろう。そう考えると若干中学一年生がナメられているようにも思える。だって他の教科書だと小4が読むことになってるんだし。詩は学校の授業では扱いにくいので、まとまりを「連」と呼ぶとか散文詩とか定型詩といったような形式的なことがらが多かったように記憶している。

 そのすぐ隣には高野辰之の詩「朧月夜」がある。こちらは東京帝大を出て文部省に勤め、東京音楽学校で教鞭をとった国文学者で、明治から大正の人だ。この経歴からも察せられるが、彼は作詞で非常に有名で、うーさーぎおーいしかーのやーまーの「ふるさと」や、この「朧月夜」、「春が来た」といった曲の作詞を手がけている。どの歌も超有名だが、この朧月夜といい、どれも役人的で、いかにも堅い。確かにことばの美しさや端正さのような形式性に優れているけど、この詞に出てくる菜の花畠やら里わの火影(そもそも「里わ」という言葉はもう使わないだろう)なんて現代の中1が分かるんだろうか、と現代の20代は思ってしまう。きっと「蛙のなくね」というフレーズが出てくるから、草野心平のかえるの詩と並べたのだと確信しているのだけど、それは安易過ぎるだろうか。「ふるさと」のような歌もそうだけど、明治時代の長野県で生まれ育った高野辰之が歌った故郷や朧月夜を体験し、実感する人はほんの一握りになっているはずで、そう思うと草野心平の「春のうた」が急にみずみずしく、生き生きとしたものに見えてくるので不思議だ。逆にいえば文部省唱歌のこの詞をここに置く意味はなんなんだろう。「言語文化にふれる」という単元全体の位置づけからすると、この詞は明治時代担当といった感じだと思うが、もうちょっと良いテクストはなかったかね。歌を連想させることでイメージがつけやすいというのがあるかも知れないが、いまの小学生は朧月夜なんて聞かないだろう。なにせ僕も特に聞いた記憶がない。

 そういえば教科書の詩といって思い出すのはまず第一に金子みすず「私と小鳥と鈴と」で、あれは小3だったように思う。あのレベルの詩を載せてくれればいいのに。最後にそんなことを思った。