ブログ三銃士

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中学国語教科書を読む―その2― シュウ

平成24年度版中学校国語教科書『中学生の国語』|三省堂「ことばと学びの宇宙」

 

 テレビやゲームをさしおいてまず何よりも国語の宿題をするという中学一年生などほとんど居ないだろうから、この年末も差し迫った日に真剣に国語の教科書を読んでいるのは僕だけということになる。そもそも国語の宿題は漢字練習か読書感想文が関の山で、文章をきちんと読むという宿題はほとんどない。ネットの感想文やあとがき、解説を参考に作文をでっちあげるよりきちんと文章を読んでもらう方がよほど有益なはずだが、そうしてもらうのはなかなか難しい。だから
彼らの代わりに僕が教科書を読み、彼らの代わりにつらつらと作文をでっちあげよう。

 前回の「その1」では詩だったが、それに引き続いて「伝統的な言語文化」として和歌が取り扱われている。和歌は春の歌が三首。持統天皇の「春過ぎて 夏来たるらし白たへの 衣干したり 天の香具山」、紀貫之の「人はいさ 心も知らず ふるさとは花ぞ昔の 香ににほひける」、在原業平の「世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」である。どれも百人一首に収録されている定番の歌だが、それにしても天皇の詠んだ歌が教科書に収録されていること、人口に膾炙していることにはもっと注目が集まっていいんじゃないだろうか。調べたわけではないが、皇帝や国王の詩や小説、論説が教科書に載っている国は珍しい気がする。このこと自体、日本における天皇天皇制というものの歴史的位置付けを浮かび上がらせる一つの素材といえるだろう。こうした関連でいえば、特に優れているというわけではないけれども、谷知子の『天皇たちの和歌』という本が存在する。

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 僕の記憶では、持統天皇のこの歌は「夏来たるらし」ではなく「夏来にけらし」であり、「衣ほしたり」ではなく「衣ほすてふ」だった。調べてみると、この教科書に収録されているのは万葉集に基づくものであり、僕の記憶の歌は新古今和歌集に基づくものらしい。

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また、それによって「アマノカグヤマ」か「アメノカグヤマ」で読み方が異なるという説もあるようだ。こうしたテクストの違いは意味にも当然響いてくるはずで、なにしろ「ほすてふ」だと伝聞のニュアンスが伴う。来にけらし、という表現も専門的にはきっと違った意味を帯びるのだろう。
香具山は奈良県橿原市にある山で、標高は151m。意外と低いとも思うが、富士山みたいな高い山に衣を干すなんて大変だから、そんなもんか。

 なぜ歌自体が変わってしまったのか。一説によると、万葉集は全て万葉仮名で書いていたので、持統天皇の歌も「春過而夏来良之白妙能衣乾有天之香来山」というものだったらしい。こういう万葉仮名もだんだん廃れていき、時代がくだると、読み方が複数あるようになり、変わってしまったのだという。また、この変化には極めて一般的にいえば、ますらおぶりといわれる万葉集と、たおやめぶりといわれる新古今和歌集との対比も説明としてあるかもしれない。いずれにせよこの歌には、少なくとも洗剤商品のキャッチコピーとしての価値は現代にもあるように思う。

 紀貫之の歌は素晴らしいが、人の心はともかく、梅の花の香りは変わらないという紀貫之の歌は、梅の花の香りがぱっと思い浮かばない現代ではなかなか実感しがたい。自然は昔のまま変わらない、というこうした自然観はほとんど破壊されつつある。むしろ駅前の店はすぐ変わるけど、自分の心はそんなに簡単には変わらないとでも言いたくなるほどではないか。久々にかつて滞在した町や、地元を訪れた際に「懐かしいなぁ、変わらないなぁ」と思うのは何かしらの香りと結び付けられているからか?現代において香りという感覚は不当に遠ざけられているのかもしれない。

 在原業平の和歌は、桜という植物への日本人の執着の象徴かのように扱われることがある。こうした扱いは、容易に日本人論、伝統論、日本固有の自然論といった怪しいものに回収される危険がある。先ほどの紀貫之の歌にもあったように花といえば梅を指す時代もあったわけで、安易に桜を日本とか日本人とかいう大きな主語に接続させる話を僕は信用しない。散るからこそ美しい、というスローガンで何人の命が失われたんだろうか。桜花という名の戦闘機が何に使われたのか、中島貞夫の「ああ同期の桜」がどういう映画かを思い出す。「桜はきれいだけど、すぐに散ってしまうからそのたびに心を痛めることになります。だから最初から桜そのものがなければこの悲しい気持ちにはならなくてすむのになぁ、という意味です。」というような教科書的説明から「桜は散るからこそ美しい」という日本浪漫主義的言葉遊びまではほんの一歩である。「桜は日本人が伝統的に大好きな花で」が付け加われば「武士である日本人らしく散り際は美しく死のう」もどんどん近づいてくる。

 そういう桜の使われ方に比べれば、誰も桜それ自体に価値を見出していない、飲む口実としてだけの花見のほうがよっぽど健全だ。そしてその幹事やら、実は参加したくないメンバーが「あー桜さえなければこの花見もなかったのになー」と愚痴を言っている歌だと考えたほうがよっぽど健全な解釈ではあるまいか。実際、在原業平も花見の際に酒を飲みながら和歌を詠まなければならないという席でこの歌を詠んだらしい。ただ、この解釈に問題点があるとすれば、中学一年生に花見の席でのしがらみを想像させることは難しいということである。