ブログ三銃士

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シネマディクトSの冒険 ~シュウの映画時評・第三回「ブリッジ・オブ・スパイ」~

スティーブン・スピルバーグ「ブリッジ・オブ・スパイ」(シネマスコープ、141分)
 
 
 傑作である。冷戦期、1972年のミュンヘン・オリンピック事件を素材にした傑作「ミュンヘン」を撮ったスティーブン・スピルバーグは、本作で1950年代後半から1960年代のソ連と東ドイツを登場させ、戦後秩序を描き直そうとしているのではないかと憶測するのもあながち夢想ではないような気にさせてくれる。そういえば「ミュンヘン」でもイスラエルのスパイ機関「モサド」が登場したのであった。「宇宙戦争」を観た者なら記憶するべきである、トム・クルーズが車と拳銃を放り出した後に入ったダイナーの窓と同様に、本作でも窓や採光のための空間が印象的である。とはいえ、そこからは光だけでなく、銃弾も注ぎこまれることになるのだが――そしてその銃弾がどのように撃ち込まれるか、どのような音がするだけでもスクリーンで確認するに値する。
   
 
 ところで、この映画ほど卓越したオープニングはそうそう無いだろう。柔らかな日差しがそそぐ部屋の中でカンバスに絵を描いているメガネの中年男性は、電話が鳴ると少し間を置き、受話器をとる。絵をみると相当の腕前のようだ。受話器をとった男は、しかし何も声は発さず、そのまま出かけていく。「ブリッジ・オブ・スパイ」なるタイトルの映画を観ているはずの観客は、彼がスパイなのかどうかをまず考えるところだ。しかしこれまでのところ、何も不審な点はない。にもかかわらず、どこか警戒を怠らないような素振り。なにやら彼はただならぬ雰囲気を漂わせているようにもみえる。一体彼は何者なのだろうか、と観客は考える。ここにおいて既にスピルバーグの演出は成功しており、画面に緊張感が生まれている。間違えてはならないのは、この緊張感は、彼がどうやら国家当局に尾行されているようだとその後のシークエンスにおいて観客が気付くことによって生まれているのではないということである。ここでの緊張感は、何者が何者をなにゆえに追っているかが不明瞭な点にあるからである。トム・ハンクスが路上で何者かに追われるシーンと比較すればこの差異は明らかだ。したがって、彼が突然人ごみの中に消えてしまったことで、まるでスパイのように尾行をまいたと思ったら次の瞬間には、不意にまるで一般人のように階段を上って現れることで我々は拍子抜けさせられ、確信をもって彼に貼り付けた「スパイ」というラベルをはがし、再び彼の正体を見極めるために目を緊張させなければならないのである。つまりここでの緊張とはどっちつかずであること、言い換えれば一本の糸が両方から引っ張られていることを意味している。
 
 巧妙に両方から引っ張られたこの糸は、すぐに断ち切られる。次のショットで、彼は川沿いのベンチでデッサンをしている。彼はそのベンチの下から、カンバス台のねじを調節するふりをしながら、どうみても怪しいコインを探り当てる。ここに至ってようやく彼はやはりソ連のスパイであると我々は確信することになるのだが、優れた映画の前で我々は常に後手に回らざるをえない。映画の中心はすでに彼がスパイであるかどうかではなく、彼のスパイとしての力量に移っているのである。結果的には、彼はそのコインの中から暗号文のような小さい紙を取り出すことになるのだが、その過程を注目しなければならない。両手を中心として、淀みの無い流れで器用にマッチやらカミソリやらを取り出していく一連のショットは、ただその手の運動の美しさが、彼のスパイとしての習熟度を何よりも雄弁に示しているのである。しかしまたもや我々は、その直後に乗り込んでくるFBIに対して彼がほとんど下着姿で煙草をくわえながらバスルームから出てくるとき、彼のスパイとしての力量を疑わざるをえなくなってしまう。ここに再び糸が張られ、緊張が生まれる。しかしここでの糸は、彼が一般人なのかスパイなのかではなく、有能なスパイなのか、無能なスパイなのかということである。後半に出てくるアメリカ人スパイの凡庸さと比較すれば、この緊張は一層引き立つことになる。これ以上展開を説明するのは野暮というものだが、いずれにせよ、直後の彼の振舞いによってこの糸もすぐに断ち切られる。勿論それは、糸が弛緩しないためにである。
 
 以上でオープニングは終わり、トム・ハンクス演じる弁護士へと展開は移っていくことになる。しかし、これでオープニングを言い尽くしたことには全くならない。それはヤヌス・カミンスキーという固有名詞が抜けているからである。世界を驚かせた「シンドラーのリスト」の撮影以降、スピルバーグ作品に欠かせないこの撮影監督は、本作で驚くほど巧みな撮影を行っており、巧みすぎるゆえにいささか撮影が目立ちすぎたとさえ言いうる「戦火の馬」を思い出させる。オープニングで明らかになるのは何よりもまず、このカミンスキーの手腕なのである。少しザラついた、いかにもフィルムらしい質感と、まさに50~60年代のアメリカといった色彩は、現在、カミンスキー以外に誰が実現できるのか、我々は知らないだろう。全編に渡って窓際から注ぐ常識はずれの光の量にもカミンスキーの存在感は顕著である。さらに付け加えれば、このソ連スパイを演じたマーク・ライランスという俳優の名もカミンスキーと共に覚えておかなければフェアではないだろう。なぜなら、これまでの我々によるオープニングの説明がほんの少しでももっともらしいものに聞こえるとすれば、それはスピルバーグ、カミンスキーだけでなく、このマーク・ライランスの演技も決定的な役割を演じているからである。
 
 
 困ったことにオープニングだけで全体の分量のほとんどを費やしてしまった。まだまだ語るべきことはあるのだが、総括的にいえば、通俗的な映画作家だと思われやすい、しかもそれはあながち間違っているわけでもないために、なおさら誤解を受けやすいスピルバーグと、傑作「ファーゴ」を生み出した、しかし通俗的とは到底いえないコーエン兄弟による、分かりやすい感情の動きを徹底的に廃した脚本とが融合した本作は、その両者の良さが明快に出ているように思う。スパイ達――本来はブリッジ・オブ・スパイではなく、ブリッジ・オブ・スパイズであることに注意しなければならない――が行き交う橋における、「立ち続ける男」という感動、あるいはトム・ハンクスが帰宅してからの、子どもたちと母親が観るテレビ番組のアナウンスにおける感動の何と謙虚なことだろうか。そもそも実際には安易な感動なるものを一番嫌うのはスピルバーグ自身なのであるが、それにもかかわらず、少なくともコーエン兄弟の映画とは違ってスピルバーグの映画は確実な感動を生み出す。そしてそれはオープニングまで遡って考察されるべき感動なのである。
 必見。