ブログ三銃士

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中学国語教科書を読む―その4―

平成24年度版中学校国語教科書『中学生の国語』|三省堂「ことばと学びの宇宙」

 

 

 第4回である。今回は「随筆」と「物語」を読む。随筆は枕草子徒然草。物語は平家物語であり、どれも全て冒頭部分が載せられている。この記事も随筆ということになるのだろうが、日本で随筆とかエッセイという言葉は「試みること」を原義とする英語やフランス語のエッセイとはどうも違うものに聞こえる。欧米のエッセイの代表格というか、そのジャンルをその本の名前とともに有名したのはモンテーニュの『エセー』だが、この冒頭には、私自身を題材とするのがこの本である、というようなことが書いてある。「枕草子」もまた清少納言が彼女の思った趣のあるものやないものをひたすら書き連ねていくというイメージがあるが、そういう意味では似たようなものなのかもしれない。ただ読んでみるとその差は歴然としているようにも思うが、エセーも枕草子も部分部分しか読んだことがないからはっきりとはいえない。超有名な加藤周一の『日本文学史序説』もこの部分(文庫でいえば上巻あたり)は読み飛ばしたから知らない。誰か読んで教えてください。 

 

日本文学史序説〈上〉 (ちくま学芸文庫)

日本文学史序説〈上〉 (ちくま学芸文庫)

 

  

 枕草子が書かれたのは10世紀の末だという。知られているなかで最も古い日本の随筆である。ちなみにモンテーニュの『エセー』は1580年だ。ただ、この記事は別に枕草子研究ではないから、別に詳しく知る必要はそれほどない。この教科書に載っているのは有名な冒頭部分「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。」である。春、明け方に目覚めて山をふと眺めたことは生まれてから一度もないが、美しく端整な文だと思う。あまりに端整だから、清少納言のことを「したり顔にいみじうはべりける人さばかりさかしらだち」といって、したり顔で頭がいい風にみせている、と批判した紫式部の気持ちも分からないではない。源氏物語が全く良いとは思わない僕にとって、紫式部派か清少納言派かと聞かれたら、ためらいなく清少納言派と答えるが、残念ながらそうした質問をされたことはまだない。

  

エセー 1 (岩波文庫 赤 509-1)

エセー 1 (岩波文庫 赤 509-1)

 

  

 枕草子の冒頭の美しさというか清少納言の美しい文を端整に書こうとする意気込みは、すぐ下にある徒然草「つれづれなるままに、日暮らし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」と比較すると一層明らかになる。枕草子も、この徒然草も、冒頭部分を暗記させられたのをはっきりと覚えているし、今でも暗唱できるが、不思議なのは「あやしうこそものぐるほしけれ」の部分だ。何もすることがないから毎日硯に向かって思いつくことを書いてると「あやしうこそものぐるほしけれ」だ。物狂ほし。この教科書の現代語訳では「あきれるほど気分が高ぶってくる」とある。しかし「物狂ほし」という語感から受け取る印象は、このマイルドな意味とはだいぶ違う気がする。やはりここは「異常なほど狂おしい気持ちになる」くらいにしてほしい。「ひまだなー、とりあえず思いつくままに適当に書くか」というところからして、何かを書かなければ気がすまない種類の人間であることがわかり、僕としては親しみを覚える。この記事だって同じようなものだ。だけどこの記事を書いているからといって「異常なほど狂ほしい気持ち」になるかというと、あまりならない。もちろん本当のことを言うと、何かに取りつかれたような気分になって書くことはあるけれど、この兼行ほど徹底した狂おしさは無いと思う。その意味では、信じられないペースで信じられない量のブログを書いているアマチュアブロガーは数多いが、彼らのような人々のモデルはすでに兼行によって先取りされていたというべきだろう。生粋のエッセイスト、アマチュア・ブロガー兼行。実際彼の書く文章は面白い。多分いまのはてなダイアリーでも活躍できると思う。

 

 この二つの随筆の隣のページには「物語」として平家物語冒頭がある。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」というやつ。これも暗唱したものだ。小林秀雄平家物語論なんてとりあえずどうでもいいから、この文章のすばらしさを考えたほうがいい。このまとまりは二つにわけられて、それぞれが漢詩でいう対句のような構造になっており、全てが同じようなことを言っているのに、なんか全部かっこいいというすごい文だ。なんか馬鹿みたいな感想になってしまったが、しょうがない。

 

モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)

 

 祇園精舎はブッダが説法を行った寺院のことで、今もその場所は残っている(はず)。しかし、精舎というのは仏教の寺院のことだからいいとして、祇園ってなに?という素朴な疑問が沸いてきたので調べてみると、ジェータさんの園林という意味らしい。ジェータを漢字にすると祇陀となり、祇園の祇はここからきている。もちろん京都の祇園もここから取られている。京都の八坂神社を中心とする祇園信仰は、祇園精舎の守護神である牛頭天王祭神としているので、祇園という名前になったのである(というのは知らなかったので調べた)。

 

 シャラソウジュの花の色は盛者必衰のことわりをあらわすというから、どんな深遠な色なのだろうと思って見てみると、鮮やかな黄色を中心に、白いはなびらが5枚くらい周りを囲っている。かなり爽やかな感じで、どのへんが盛者必衰のことわりをあらわしているのかはよくわからない。シャラソウジュの花の色は今でも見ることができる。祇園精舎の鐘の声はもう聞くことができない。これこそ諸行無常だ。