ブログ三銃士

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中学国語教科書を読む―その7―

平成24年度版中学校国語教科書『中学生の国語』|三省堂「ことばと学びの宇宙」

 

 万葉集やら、かぐや姫やらの歴史的な文章を終えると、漢字についてのコラムが二つ続く。「漢字の字体・画数・筆順」では、歌舞伎に使われる勘亭流、寄席文字、相撲文字といった江戸時代から使われている字体が最初に紹介される。勘亭流というのは初耳だったが、その流れでゴシック体や明朝体、楷書、行書、草書、隷書が紹介される。字体、フォントというのは結構悩ましいもので、中学生の頃なんかは気にならなかったが、こうしてワードで文章を書いたり、レジュメを書いてそれを印刷して配ったりするときなど、少しフォントをいじってみたくなるものである。少しフォントに気を使うだけで文章全体の印象が変わるので、一工夫したいと思いながら結局デフォルトのMS明朝のままだ。

 

 そうして「表現力1 的確に表す」という単元が始まる。ここでは「スピーチをしよう」と「一枚レポート」を書こうという内容で、なんというか、非常に勉強になる。中学一年生のうちにこれを学んでおけば確かに役立つだろう。特に何かを調べて報告したり、それを論文やレポートにまとめる時には必須の前提が書いてある。学校ではこういう項目は飛ばされるかほとんど流されていたように思うが、きちんと時間をかけて習得したほうがよいのではないかと思う。例えば「スピーチをしよう」では「話しては、声の大きさや速さ、言葉遣いなどに注意して、聞き手の反応を確かめながら話します。」という、スピーチどころかそもそも人間同士の会話における必要条件が述べられている。どう考えても死んだ魚の目をしているような相手に延々と自分の話をするような人間を一人でも減らすことがこの項目での目標になるし、最大の社会への貢献になるはずだ。「言葉の地図」という名前でブレインストーミングも紹介されている。

 

 そして「一枚レポートを書こう」では「レポートは、構成を調え、伝える事柄を的確に表すことが大切です。また、根拠を明確にした書き方をしなければなりません。」というもっともなことが書いてある。これも中学生のときに多少なりとも実践を通して身につけていれば、大学生になったときに、たとえウィキペディアからのコピペで構成されているとしても、少なくとも明確な論旨とその論証を持つレポートを提出することができるのであって、感想文や構成のぐちゃぐちゃな文章を大学教員が読ませられることも少しは減るはずである。多少なりとも論文というものを書いたことがある者にとって「身のまわりにある物事や、社会で起きているできごとを見つめよう。なぜこうなっているのだろう?こういうことが起きるなんて不思議だ、と感じたことはありませんか。このような「問い」を大切にして、レポートのテーマを決めましょう。」という言葉は至言であるし、「テーマについての問題意識をはっきりさせよう」とか「このレポートで明らかにしたいことは何か」など、この言葉を聞かせたい人間はたくさん居る。大学一年生や大学院に入った人間にはこの中学国語教科書のこの部分を読ませるべきだ。

 

 例も秀逸で、「鉛筆はなぜ六角形なのか?」ということをテーマにしている。これについて、他の筆記用具との比較や鉛筆の製造過程、鉛筆の使用方法、鉛筆の歴史、鉛筆の種類など多角的な調査、研究の視点を挙げ、どのように調べたかも正確に記録して引用している。その理由は第一に「鉛筆が転がらないようにすること」であり、第二に鉛筆を持つさいに親指、人差し指、中指で持つことから、六角形だと持ちやすいことである。なるほどね~と普通に思ってしまうが、さらにこのレポート例では新たな疑問として「ではなぜ色鉛筆は丸いものが多いのだろう?」という問題提起を、本論をまとめながら提出している。「なぜ鉛筆は六角形で色鉛筆は丸いのか」という単なる知識、雑学ではなく、それをどのような手順を踏んでまとめるのかということ、単なる「調べ物」ではないレポートや論文を書くという観点が決定的に重要である。考え方や本の読み方にも応用できる話だ。だから繰り返しになるが、大学生も中学一年生の国語の教科書をこの部分だけでも読むべきだ。

 

 ちなみになぜ色鉛筆が丸いかは教科書には書いていないので調べてみると、色鉛筆の芯は普通の鉛筆とは違って太く柔らかいために、六角形にすると芯に過剰な力がかかり、割れてしまうかららしい。普通の鉛筆の芯は一度焼いているので強くて堅いために、六角形にして指の圧力が芯にかかっても割れないようになっている。なるほど、面白い。

 しかし「持ちやすいから」という理由でいえば持ちやすいのは三角形でも同じはずではないだろうか。これは当然の疑問で、実際、「おにぎりえんぴつ」という名前の三角形の鉛筆がかつてあったのである(僕の記憶に基づく)。しかしこれはあまり流行らなかった。なぜだろうか。恐らく三角形だとあまりに転がらないからではないだろうか。丸い形から離れすぎているのである。逆に、同じ論理でいけば九角形の鉛筆でも持ちやすいはずだが、これだとあまりに転がりすぎるからだめなのだろう。丸い形に近すぎるのである。したがって、教科書のレポート例の第一の理由である「転がらないようにすること」は不十分であり、「転がそうと思えば転がすことができるくらいの適度な丸さを確保すること」にしたほうがより実態に近いのではないかという仮説を提出したい。答えが分からないときには「鉛筆を転がせ」という古典的アドバイスがあるし、僕が子どもの頃に流行っていた、鉛筆を転がして出た目の技で勝負するバトル鉛筆、通称「バトえん」を想起すれば良い。ただ、なぜ鉛筆を延々とではなく適度に転がしたくなるのかは不明であるから、本当であればそこまで考察しなければならない。

 

 鉛筆といえば確か小学校三年生の国語の教科書に「いっぽんの鉛筆の向こうに」という読み物があったことを思い出す。この文章に出てくるスリランカのポディマハッタヤさんは七人家族で、息子にサマンタくんというのが居る。家族の写真は幸せそうである。アメリカで木を切るトニー・ゴンザレスさんも出てきて、さまざまな人たちによって鉛筆ができているということを学ぶという内容だ。遠い昔のことだが、出てきた人物の名前やサマンタくんの顔まではっきりと覚えている。それくらい何度も読んだのだろうし、ポディマハッタヤさんという語感が印象に残ったのだろう。小学生とはいえ、この僕に何度も読ませる文章を書くとは、なかなかの名文家だったのだろうと思っていま調べてみると、著者は谷川俊太郎であった。なかなかやるじゃないか。そういうわけで谷川俊太郎のベストは詩ではなく「いっぽんの鉛筆の向こうに」である。