ブログ三銃士

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中学国語教科書を読む―その10―

平成24年度版中学校国語教科書『中学生の国語』|三省堂「ことばと学びの宇宙」

 

 前回からしばらく時間が空いてしまった。引き続き中学国語教科書をだらだらと読んでいく。「わかりやすく述べる」の単元で、前回は説明文「水田のしくみを探る」を読んだ。その狙いは、文章でどのようにわかりやすく説明するか、を読むことで学ぼうとするものだった。しかし、書類の山に埋もれて読みたくない文章でも無理やり読まなければならない技術を身につけた彼らの担任の先生ならまだしも、中学生がそれだけの動機で文章をきちんと読むはずがない、ということを前回書いた。

 

 続いては「体験文を書こう」である。「わかりやすく述べる」の実践編といったところか。ここでの教科書のアドバイスは、以前「スピーチをしよう」で取り上げたように、なかなか具体的でわかりやすい。簡単に紹介するので、将来体験文を書く際の参考にしてほしい。まず第一に「体験したことを思い出す」。中心となる体験から、そのとき感じたことや覚えていることをブレインストーミングのように書き出していく。ポイントは、ブレインストーミングの中心となるのは、出来事そのものではなくて「うれしかった」とか「かなしかった」という感情だということである。確かに、中心に「小学校の卒業式」がある場合、友達のだれだれと話しただの写真撮影しただの、当日の天気だの、お母さんとお父さんの当日の喧嘩だの、先生が泣いてただの、たのしかっただの悲しかっただの、あまりに拡散しすぎてしまうことが簡単に予想できる。この点、「たのしかった」から始めて「ピクニック」とつなげると、たのしいピクニックという体験をベースに一貫性のある体験を思い出すことができそうである。

 

 体験を思い出したら、第二に「構成を考える」。思い出した内容にさらに付け加え、カードのようにして肉付けしていく。「はじめ」「なか」「おわり」と順序も考え、それぞれ「理由の段落」「説明の段落」「意味づけの段落」といった役割を振っていく。実際に体験分の巧拙を決するのは恐らくこの部分である。どのような順序で体験を並べ、どのような意味をそれに持たせていくのか、という作業は、中学生でなくても非常に難しい。「はじめ」「なか」「おわり」の順序にしても、これは全体の構想が固まっていなければ決めることができず、たいてい時間軸に沿った順番になってしまう。別にそれが悪いわけではないが、時間軸だけなら別に構成などそこまで気にすることもないだろう。こうして構成を考えたら、あとは「体験文を書く」である。当たり前だ。

 

 面白いのは、この体験文の模範例が載っているところだ。しかも実際に中学1年生が書いたものらしい。読むと、なるほどコレは模範例だという印象を受け、教科書で教科書的な文章を読むことへの複雑な感情が沸き起こる。もちろん誉めているわけではない。

 

 「エー、あと四時間も!」

 という「私」の叫び声から模範の体験文は始まる。「これこれ」と言いたくなるような定番技法であり、微笑ましい。そのあとすぐに家族で船旅をしており、船酔いでぐったりしている状況であることが説明される。「説明の段落」である。家族全員がぐったりしているなか、添乗員だけが元気に走り回っており、添乗員に「大変じゃないんですか?」と話すと、彼女はお客さんに「ありがとう」と言われると元気づけられるのよ、と答える流れだ。そして最後の「意義づけの段落」である。

 

 大人が、つらいことがあっても、がんばって仕事を続けられるのは、みんなどんな仕事でも、喜び、元気のもとがあるからじゃないのかな、と思いました。

 なんだか、自分が少しだけ大人に近づいた―そんな気になれたこの夏の旅行でした。

 

 「働きがい」について考えることができた、との感動的な一文だ。文章全体としても確かにうまい。しかし、今になってこうした文章を読むと、やはり単純にうまいとか感動的だとかで済ませられないものがある。子供特有のユートピアは労働にまでやはり及んでおり、中学生にまでなると「働きがい」などという精神的要素すら取り込んでいる。小学生への定番アンケート「なりたい職業」にお花屋さんやらケーキ屋さんやらが並んでいたとしても、それはきっと「働きがい」のためではないだろう。サッカー選手や野球選手になりたいのも、スポーツが好きで、試合をテレビを観ているからであろう。これが中学生1年生になると「働きがい」だ。すごい進化である。いずれにせよ多くの人は就職活動の段階でユートピア性を実感し、賃金労働者として歩むことになるわけだが、そこに至る精神性はすでに13歳くらいから定着し始めているのかもしれない。

いうまでもないが、別にこれはこの作文を書いた中学生のせいではない。

 

 働くことの喜び、仕事における元気のもと。皆さんはありますか? その喜びは本当に自発的なものですか? 自分を犠牲にしていませんか? 働きがいを搾取されていませんか? そもそも働くことができてますか? この中学生の体験文はこうした問い、多くの人を絶望させる問いへとつながっている。こわいこわい。しかしこれが現実なのであり、賃金労働者は自らの労働力を売るしかなく、それはもっぱら肉体の存続のための労働となる。すなわち必然性に労働が従属する。お互いの労働観が異なっていたとしても、マルクスだってアーレントだって現状に対して怒りを覚えていることに違いはないのである(だからアーレント自身が言うほどマルクスと違うわけではないと思う)。

 

 なんだか、世界が少しだけプロレタリアート革命に近づいた―そんな気になれたこの春の体験文でした。

 

 

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

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マルクス・エンゲルス 共産党宣言 (岩波文庫)

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