ブログ三銃士

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シネマディクトSの冒険 ~シュウの映画時評・第一回「野火」~

塚本晋也「野火」(2015)87分・アメリカンビスタ

 自らがなにかに引き裂かれ、分裂を回避できないとき、そこに倫理が生じる。戦場では文字通り肉体としての人間が現れる。それは「犬」や「猿」のようなものであり、肉片である。そうした事実を認めながらも、人間という存在はそれだけではないはずだと思わずにはいられないこと、これが倫理である。しかし倫理は肉体としての人間のみからは生じない。いかにしてこれが生じたかということが本作のひとつの主題である。


 オープニングで、主人公である田村は病気のために使い物にならないと判断され、数日分の芋と共に病院へ厄介払いされる。病院もまた芋だけを取り上げて、元の部隊へと追い返す。数本の芋と共に無意味な行程を反復させられる田村の姿は、彼自身が芋のような存在に成り下がってしまったことを象徴し、肉体として、ひたすらさまよい歩き続けなければならないフィリピン戦線における日本敗残兵たちをも表している。


 田村にとって決定的に倫理の問題が生じる局面は二つ存在する。第一にフィリピン人女性を銃殺する場面である。意識していなかったとしても田村は彼女を犬と同視しているのだが、教会でのこの出来事以降、神秘的な情景描写が現れ、宗教的な、すなわち倫理的なモチーフが登場する。ここで倫理が生じていないとするならば、なぜ田村は銃を捨てなければならなかったのだろうか。しかしここでの問題は田村が信仰に目覚めたかどうかなどということではない。そうではなく、肉体としての人間のみが前面に出てくる極限状態において、田村に倫理を生ぜしめたのは信仰しかなかったということである。逆にいえば、倫理を生ぜしめるには信仰しかないような場が田村の生きていた状況だったということである。そして第二に人肉食もまた重要な問いである。生死よりも飢えが支配する逆説的な状況で人肉を喰らう永松に立ち向かうものは、肉体としての人間を越えた倫理しかないであろう。そしてこの倫理は第一の局面がなければ生じなかったはずのものなのである。


 本作が価値ある戦争映画であるとすれば、それは戦争の問題を描いているからではなく人間の問題を描いているからである。タイトルでもある野火が意味しているものは、それがのろしであろうと住民の火であろうと人間の存在である。しかし煙や火は現れるけれども、意味されているところの人間は登場しない。実際には田村は生身の人間を殺しているのであり、その事実がある以上、田村は人間を意味しているものしか認識することができず、意味されている人間そのものに出会うことはできないのである。だから最後まで田村が見ることができるのは人間を「意味している」野火に過ぎず、「意味されている」はずの女性ではないのである。

 ところでこの映画の構造からすれば、描かれていることは回想である。そして言うまでもなく回想も一つの体験に他ならない。この点で特筆すべきは、夜間の日本兵たちの惨殺シーンである。ここに塚本がこだわっているのは明らかだ。四肢がちぎれ、折り重なって倒れていく日本兵たちは、極めて残酷でありながらもスローモーションの中でどこかドラマチックにさえ描かれている。このことは、例えば市川版の「野火」と比べても明らかである(蛇足であるが、1951年以降雑誌『展望』に連載された「野火」と創元社から単行本として出版された「野火」と、市川版映画「野火」とこの塚本版映画「野火」はそれぞれ微妙な、しかし重大な差異がある)。しかしこれは根拠のないことではない。原作にはこの場面について「私は自分の手と足の運動を、高速度写真を見るように、のろく意識した」という記述があるだ。塚本はこの「体験」を重視した。われわれもこれを「体験」する。実際、このシーンに意味や象徴といったものは存在しない。なにかしらの意味があるとすれば、それは肉片は肉片でしかないということである。泥で真っ黒に汚れながらも不気味に光る目の白さ、広瀬が「死んだら食べていいよ」と不気味に笑ってさらけ出した腹の白さにも、われわれは即物的な肉体としての人間を意識せざるをえない。


 原作者である大岡昇平は「戦争を知らない人間は、半分は子供である」と書いた。しかしわれわれはこの映画を観ることで、戦争をいくばくかでも、間接的にでも「体験」しようと試みることができる。そして観たあとに映画を追想することもまたひとつの「体験」に他ならない――したがって、この拙い文もまたひとつの「体験」のかたちなのである。