ブログ三銃士

このブログは、FM府中で絶賛放送中の番組、「シネマ三銃士Z」を母体とするブログです。放送では収まりきらない思いの丈のほか、ラジオで放送したものとは関係ない本のことや音楽のことetcを綴っていきます。FM府中ポッドキャストもよろしくね!http://fmfuchu.seesaa.net/

ダイスケつれづれ 第4回「TVピーポー!」

 

テレビを観る。なんだかんだ暇な時間にテレビをつけてしまう自分は旧時代の人間のような気がする。

昔々、テレビがメディアの王様だったころには、高速道路を走るのを車載カメラで撮ってそれを延々と流すような番組があったらしい。もちろん、深夜番組だけれど。

そのころ人はとりあえずテレビをつける生き物だった。もしかしたら、それで孤独が癒せると勘違いしていたのかもしれない。とりあえずつけている人間にとって、そこに流れるのは何でも構わなかったのだろう。だからこそ、延々と流れる車窓も見ていられる。

そういえば、昔のテレビでは平気で女性の乳首も映っていたものだ。今では想像もできないことだけれど。「ギルガメッシュナイト」を、観るためにドキドキしながら夜更かししたあのころ。

まあ、10年後には「アゲサゲ」や「xvideo」を懐かしむ時代が来るのかもしれない。そんなものだ。そのころにはどんなエロがあるのだろう。今からワクワクする。

ドラマを観ている。「真田丸」「あさが来た」はかかさず観ている。なんだかんだNHKだ。受信料払ってるしね。観ないと損でしょう。まあ、そういうことを抜きにしてもなんだかんだNHKの番組は面白いような気がするのは歳をとったからだろうか。昔はNHKなんて見向きもしなかったような気がするけど。

まず、朝ドラ「あさが来た」について。

主人公のあさを演じる波瑠が可愛い。

ameblo.jp

GUのCMの三人の中なら波瑠が一番好き。

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ぼくの彼女の印象が「ごめんね青春!」なせいか、どちらかというと大人しめのイメージがあったような気もするけど、今回のドラマでは一代の女傑の称えられた明治の実業家広岡浅子をモデルにしたあさを演じる。女傑と呼ばれるくらいの人物なので、そりゃもう活動的。日本全国を飛び回り、最後には日本初の女子大学を作っちゃうんだけど、これははまり役だったように思う。喜怒哀楽、感情の変化を表現するのに彼女の顔はとても適しているように感じる。あくまでぼくの印象だけれど、彼女の顔ってなんだか大雑把に描いた美人、って感じがする。目鼻口、どれも「美人ってこういう感じっしょ、うん、大丈夫大丈夫、バって描いちゃうから」って感じで、平野レミみたいな神様が作った感じ。パーツのひとつひとつが強いから、その周りの髪の毛をすっきりさせないと全体的にごちゃごちゃしちゃうから短くしているのではなかろうか。そしてそれが似合っていて、ぼくはショートの女の子が好き。

ちょっと脱線するけど「ごめんね青春!」だと波瑠よりも満島ひかりよりも中村静香が可愛かった。彼女はもっと評価されていいように思う。グラビアで。

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beamie.jp

篠崎愛も怒ってたけど、今はグラビアアイドル不遇の時代のように思う。なにせAKB系列の女の子たちが雑誌を席巻している。もちろん、ファンの人たちにとってはありがたいことなんだろうけど、ぼくはファンじゃないから、ねえ。

もっとちゃんとグラビアアイドル、って感じのグラビアがみたいじゃないですか。

まあ、いいや。「あさが来た」の話に戻ろう。

波瑠以外について。

まあ、朝ドラなんだから周りもちゃんとした役者さんたちが揃うのは言うまでもないけれど、近藤正臣風吹ジュン萬田久子升毅、辰巳琢朗などなど。

しかしながら、やはり取り上げたくなるのは宮崎あおい

はっきり言って、ドラマの前半は主人公は二人いたと言っても過言ではないと思う。波瑠演じるあさと、宮崎あおい演じるあさの姉、はつだ。

二人とも大阪の大きな両替屋に嫁ぐんだけど、幕末の維新の混乱が彼女たちを翻弄していくわけだけれども、まあそれはいいとして。

ぼくの印象として宮崎あおいはなんだかんだかわいいを卒業できていないように思っていた。

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体形のせいなのか、それとも「ユリイカ」の印象がいまだに残っているのか、どうも大人の、成熟した女性、という感じがしない。大河ドラマ篤姫」では母親役も演じていたわけだけれど、全然母親っぽくなかった。そもそも子供を産んで母親になる役でもなかったしね。

それが「あさが来た」では母親なのだ。「ああ、こういうお母さんっているよね」って感じのくたびれ感が出ている。いい意味で。だって、子育てってくたびれることですから、くたびれていることが自然だし、それはそれで美しいですよ。

まあ、篤姫役じゃくたびれられないけど。

そういう意味で、これは彼女にとって新しい役柄が開けていくきっかけになるんじゃなかろうか。

大人の体形ということで言えば綾瀬はるかはまさにそれ。

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肩回りがしっかりしていていいですな。

番組のダイエット企画がうまくいかなくて泣いていたころが懐かしい。

laughy.jp

どうも昨今の日本では未成熟な女性がもてはやされる傾向があるように思うけれど、いかんですよ。

で、話はまた戻って「あさが来た」

あさの夫、新次郎を演じるのが玉木宏。この人って男前なのに三枚目をうまく演じる。

ドラマでは家業にまるで興味のない「あほぼん」としてふらふらしていて、周りからも「どうしようもねえなあ」くらいに思われていたのが、気づくと頼りがいのある男前。三枚目なのに男前。いや、本質的な部分はまるで変わっていないんだろうけど。

たぶんこの新次郎、現代女性の理想のパートナー像になるのでは。もちろんちゃんと働いてなきゃダメだろうけど、優しくて、妻の仕事に理解があって、いざというときにはちゃんと守ってくれる頼りがいがある。そしてなにより男前。男前。

 このドラマでは彼は常に和服姿なのだけれど、その所作もいいと思う。慌てて座らなきゃならないシーンでもそれをすっきりこなす。たぶんちゃんと練習しているんだろう。

そういえば、みずほ銀行のCMは朝ドラの相手役を務めた俳優さん三人が出演していて驚いた。玉山鉄二(マッサン)、鈴木亮平(花子とアン)、福士蒼汰(あまちゃん)

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まあ、みなさん男前ですから。

で、このCMの最後に出てくる女の子、黒島結菜

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ぼくの勝手な予想だけれど、彼女はいつか朝ドラのヒロインをやるのではないかと思っている。いや、なんの根拠もなく、なんとなくそう思っているだけなのであしからず。

朝ドラの話しかしてないけど、疲れたので今回はここまで。またね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シネマディクトSの冒険~シュウの映画時評・第五回「キャロル」~

トッド・ヘインズ「キャロル」(アメリカンビスタ・118分)

carol-movie.com

 

 

・映画とその時代

  地下鉄の音が流れながら通気口が写るオープニングに「CAROL」のタイトルがうっすらと現れる。アイゼンハウアー大統領の就任というニュースから、そして粒子が荒っぽく残るフィルム風の映像からわかるように、1950年代初頭という時代を物語においても撮影においても意識したこの映画は、このオープニングにおいて、その時代の薄皮を一枚めくることを宣言している。すなわち当時はタブーとされた女性同士の恋愛という題材を正面から扱おうとしているのである(詳しくは蓮實重彦『ハリウッド映画史講義』、あるいは恐らく専門家が執筆していると思われるヘイズ・コード - Wikipediaを参照)。これは、監督トッド・ヘインズが、同じように50年代を意識した前作「エデンより彼方に」から引き続いて持つ問題意識である。

 

  

 

 ・反復と差異、手と視線

 オープニングの通気口から、カメラはこれも50年代に特徴的なクレーン撮影を用いながらワンカットで冬のニューヨークの街並を映し出す。カメラに追いかけられる男は、バーで酒を頼みながら、向こう側に座る女性に目を向ける。向こう側にはキャロルとテレーズが相対するテーブルが存在しているのである。この男がテレーズに気付いて声をかけ、彼女をパーティに誘うために二人の間に割って入る。キャロルは帰ってしまうが、この時に「楽しんで」と一言添えてテレーズの右肩に手を置く。このときにテレーズの目線は明確にキャロルの手に向いている。このこと自体、そしてこれが意味することも明白すぎていちいち指摘するのも憚られるのであるが、重要なことは、その後に男もまたテレーズの左肩に手を触れるということ、そしてテレーズはそれに全く反応しないということである。

 

 しかしこのシーンの重要さはその演出だけにとどまらない。このワンセットの演出は、映画の終盤で全く逆から繰り返されるのである。すなわち、テーブルに座る二人をとらえるカメラは、階段を挟んで向こう側にやってくる男を確かに捉えており、テレーズがアップになって何かを言おうと逡巡しているときに、テレーズの後ろから声がかかるのである。男が声をかけてテレーズが振り向くシーンは、ラストではテレーズ目線となることで、オープニングとカメラの位置がちょうど逆になっている。さらに、その後、キャロルがテレーズの右肩に手を置くとき、オープニングではこのショットはテレーズに向かって正面から撮られていたのに対し、ラストではカメラはテレーズの背中からこのショットを撮っている。同様に男の手もオープニングは後ろから撮られていたのに対し、ラストでは正面から撮られている。ラスト、このシーンのあとにテレーズが鏡を見るのも偶然ではない。このように、この映画は、「手」そして「視線」の映画であることをオープニングにおいて宣言し、ラストにおいても確認しているのである。鏡の多用は視線の演出の結果であるし、キャロルとテレーズの出会いは何がきっかけであったかを考えるだけでも「手」の意味は理解できるだろう(原作にはこのような要素は見当たらないから、これは決定的な演出である)。彼女たちが手を肩に触れるシーンは重要なものとして描かれるし、二人が初めてベッドを共にするシーンはその代表的なものである。

 

・色の受け渡し

 実際この映画は、キャロルとテレーズの二人の関係性をどのように表現するかに腐心している。たとえば、二人の間には色の継受が見られる。つまり、クリスマスセールの時期にデパートの人形売り場で働くテレーズは、店員用に赤い帽子をかぶっている。このときにテレーズはキャロルと出会うのだが、その後、二人の仲が進展するきっかけとなる日、すなわちキャロルが郊外からニューヨークへ赴き、顧問弁護士と離婚についての相談をする日、そしてキャロルがテレーズの家を訪れ、旅行に誘う日に、キャロルは深紅のコートを羽織っているのである。念のため付け加えれば、キャロルが弁護士事務所を訪れた後に、真っ赤なトラックが道を横切ること、そしてそこで何かにためらうかのように道端へ寄り、煙草を吸うのも偶然ではない。そしてキャロルはテレーズと旅行へ行くことになるのだが、その旅行の際に、二人がダイナ―で食事をしているシーンで、テレーズは鮮やかな赤いセーターを身に着けている。一瞬ではあるが、テレーズが車内でリンゴをかじることも忘れてはならない。さらに、その後、二人がベッドで眠っているところを薄闇の中捉えるショットで、カメラは二人の手が絡まり合い、一つに結ばれていることを明らかにするのだが、そのどちらのものとも判別しがたい手には赤いマニキュアが光っているのである。このような赤の受け渡しはどこで終わるか? それこそがラストシーンであり、いったいどのような赤がそこにきらめいているかを見逃してはならない。蛇足を承知で付け加えれば、旅行から帰った後に失意のテレーズが部屋を塗り直した薄い青は、キャロルの銃を偶然発見してしまうシーンでのセーターの色を想起させるものである。

 

・歩くこと

 テレーズは、一人では何も決められない。というよりも自らの意思や欲望が何かすら分かっていないがゆえに、愛していないことが明らかなリチャードとずるずる婚約者のような関係になってしまい、ランチでは食事も飲み物も相手と同じものを注文してしまう。そのようなテレーズが、自転車においてもリチャードの後ろに乗り、車においても運転するキャロルの横か後ろに座っているだけなのは当然である。この映画においてテレーズが、誰の付き添いもなく、誰に言われたわけでもなく一人で歩くシーンは数少ない。しかし、それこそテレーズの成長と自らの欲望をはっきりと知ることの象徴なのである。たとえば第一に、キャロルに郵便を出す際に、キャロルは一人で決断し一人で夜中にポストに投函している。第二に、キャロルがタクシーに乗ってハージとの話し合いをするためニューヨークの弁護士事務所へ赴く際に、ニューヨークタイムズ社へと出勤するため一人で歩いて通勤するテレーズが映し出される(このショットがなければ、事務所でのキャロルの発言に説得力など生まれるはずがない)。第三に、ラストである。恐らくテレーズが自主的に歩くシーンはこの三つであろう(氷を取りに行くシーンはテレーズではなく男を映すことが目的である)。加えて、テレーズが車を降りてキャロルをカメラに収めようとしたシーンを数えてもよい。

 

・再訪、手と視線

 カメラに触れたので補足しておけば、テレーズが写真家志望であるという設定もまた、この映画が自覚的に「手」と「視線」の映画であることの帰結である。曇りガラス越しに何かをぼんやりと見ることが極めて多いこの映画で、明らかに視線をガラスに遮断されることを拒否し、車から降りて、カメラという眼でキャロルを見て、その手でシャッターを押すことを選択するテレーズは、以前ダニーにいわれていた「人間に興味を持つこと」をキャロルに教えられるのである。したがってキャロルがカメラをプレゼントすることもまた「視線」という主題を明確にしている。考えすぎだと思うだろうか? しかし原作を読めばすぐにわかるように、原作と映画においてもっとも異なる点は、原作ではテレーズは舞台芸術志望であるということだ。この設定を変えて写真家志望にすることは、果たして偶然といえるのだろうか。行き交う二人の視線は、きょろきょろと目を動かすテレーズによって、やや不安定なものとなっているが、それもラストシーンのための布石であり、またそれだけに、厳密には視線は交わってはいないものの、ハワード・ホークスヒズ・ガール・フライデー」に典型的にみられるように二人が電話をするショットでの切り返しも感動的になるのである。

 

 

 

 

・外界による枠づけから解放する車、あるいは二人の船出

 ハリウッド映画の伝統に忠実に、この映画において車は極めて重要な道具である。なぜなら、先ほど述べたようにテレーズが誰かの運転する車に乗せられるだけであって自らの意思で動くことがないという演出に加えて、キャロルとテレーズを外界から隔離し、二人を自由にする空間だからである。いささか身分違いともいうべき二人は、旅行以外で外で会うときにはデパートの従業員と客、あるいは家に招かれた客とハージの妻、久しぶりに再会した女性二人という、よそよそしい立場あるいは距離感でしか会う事ができない。テレーズが東欧系の移民であり、家族との交流もほとんど描かれない孤児のような存在であることも想起しなければならない。キャロルの家でテレーズがピアノを弾いているとき、そしてキャロルがリンディとクリスマスツリーの飾りつけをしているとき、またキャロルがテレーズの自宅を訪れたとき、いずれもキャロルは画面上で四角い枠の中に収められている。この枠は、キャロルが決して自由な立場ではないことを表しており、さらに枠の大きさは、人物間の関係性をそのまま表していると考えられる。すなわち、裕福な郊外に住むキャロルの家にテレーズが訪れることはごく自然なことといえるから、そこではこの枠は比較的大きい(しかし直後にハージが訪ねることによってこの自由はすぐに失われる)。またキャロルがリンディと二人で飾り付けをしているとき、この二人は切り離される運命にあり、またテレーズにとっても、一客人でしかない自分と、キャロルとリンディという親子では全く関係性が違うから、そしてその親密さにテレーズはやや場違いであるから、枠は必然的に狭くなる。キャロルがテレーズの自宅を訪れることは身分違いとさえいえ、不自然であるから、玄関でのキャロルは極めて狭い枠にしか収まっていない。そのためにキャロルは贈り物のキヤノンのカメラを足で押し出すしかないのである。車はそうした人物を枠づける外界、すなわち身分や立場や境遇や性的指向から断ち切る親密圏として機能している。車で旅行する、このときほどキャロルが自由であるときはない。

 

 この意味で、二人が初めて情愛を交わすシーンは象徴的である。キャロルは画面左の洗面室の鏡に写る自分を見て、やや思いつめたような表情であるが、この洗面室は、明らかに枠づけられた空間として機能している。ここではいまだ外界による枠づけ、すなわち同性愛は「病気」であり、ましてやまだ20歳になるかならないかの娘とそのような関係を持ち、そこに引きずりこむことは―「あなたの気持ちに答えただけ」というセリフからわかるように、それがキャロルにとっては容易であると最初から分かっていたからこそ―危険であり、彼女を不幸にすることになりうるという社会的規範が機能している。しかしキャロルが洗面室の電気を消すと、右の白い壁には、大海原を航海する帆船の絵がかかっているのである。枠づけられた外界から出て、自由な親密圏へと移行すること、このような当然のことが、当時は普通ではなく「病気」であったし、現在でもそのような差別的見解や偏見は消え去ってはいない。こうしたメタファーの前を通ってキャロルは、テレーズの座る椅子の後ろに立ち、二人で鏡に写る自分たちを見るのである。この視線の交錯において、お互いの手を握り合うのが当然であることは、この映画が「視線」と「手」の映画であると既に述べた通りである。

 

ジェンダーと即自、対自

 ところで同性愛の描写において、この映画はそれほどタブー感を出しているわけではない。実際にはリチャードをして語らせているように誰もが「そういう人がいるのは知っている」というわけで、身近な人が同性愛者であってもことさらに差別をするのではなく、「治療」させたり、「そういう人には何らかの背景があるんだ」と理由をつけて納得しようとするのである。これは「エデンより彼方に」でも同様であった。むしろこの映画に登場する男たちの存在感の無さは強烈である。キャロルの夫のハージは、アビーに「キャロルを飾り物としてしか見なしていない」と一喝され、一度ならず扉を眼前で閉められる。テレーズの婚約者リチャードもまた救いようのない即自的人間であり、自らがテレーズに愛されるべき存在であり、テレーズがそうしないことを何かの間違いであるかのように素朴に信じ込んでいる。ダニーもテレーズにキスをしたことを何か重大なことであるかのように考えており、それについて的外れなことばかりをテレーズに投げかける。そしてリチャードもダニーも当然のように隣にはテレーズではない女性を侍らせることができる。彼ら男性たちは一度たりとも鏡など見ない。鏡を見るのはキャロルとテレーズだけである。自らに向き合うこと、すなわち対自的存在となる契機を与える道具こそが鏡なのである。

 

・恋は盲目?

 「恋は盲目」など嘘である、とこの映画は主張している。キャロルと旅行へ行くことをリチャードになじられたテレーズが「今ほど目が覚めたことはないわ」と言い返すように、自らの欲望を明確に知ることこそが目を見開くことなのであり、被写体をカメラにおさめるということなのであり、その意味でこの映画が視線の映画であるということもまた当然なのである。

 

 

 

 

 

中学国語教科書を読む―その7―

平成24年度版中学校国語教科書『中学生の国語』|三省堂「ことばと学びの宇宙」

 

 万葉集やら、かぐや姫やらの歴史的な文章を終えると、漢字についてのコラムが二つ続く。「漢字の字体・画数・筆順」では、歌舞伎に使われる勘亭流、寄席文字、相撲文字といった江戸時代から使われている字体が最初に紹介される。勘亭流というのは初耳だったが、その流れでゴシック体や明朝体、楷書、行書、草書、隷書が紹介される。字体、フォントというのは結構悩ましいもので、中学生の頃なんかは気にならなかったが、こうしてワードで文章を書いたり、レジュメを書いてそれを印刷して配ったりするときなど、少しフォントをいじってみたくなるものである。少しフォントに気を使うだけで文章全体の印象が変わるので、一工夫したいと思いながら結局デフォルトのMS明朝のままだ。

 

 そうして「表現力1 的確に表す」という単元が始まる。ここでは「スピーチをしよう」と「一枚レポート」を書こうという内容で、なんというか、非常に勉強になる。中学一年生のうちにこれを学んでおけば確かに役立つだろう。特に何かを調べて報告したり、それを論文やレポートにまとめる時には必須の前提が書いてある。学校ではこういう項目は飛ばされるかほとんど流されていたように思うが、きちんと時間をかけて習得したほうがよいのではないかと思う。例えば「スピーチをしよう」では「話しては、声の大きさや速さ、言葉遣いなどに注意して、聞き手の反応を確かめながら話します。」という、スピーチどころかそもそも人間同士の会話における必要条件が述べられている。どう考えても死んだ魚の目をしているような相手に延々と自分の話をするような人間を一人でも減らすことがこの項目での目標になるし、最大の社会への貢献になるはずだ。「言葉の地図」という名前でブレインストーミングも紹介されている。

 

 そして「一枚レポートを書こう」では「レポートは、構成を調え、伝える事柄を的確に表すことが大切です。また、根拠を明確にした書き方をしなければなりません。」というもっともなことが書いてある。これも中学生のときに多少なりとも実践を通して身につけていれば、大学生になったときに、たとえウィキペディアからのコピペで構成されているとしても、少なくとも明確な論旨とその論証を持つレポートを提出することができるのであって、感想文や構成のぐちゃぐちゃな文章を大学教員が読ませられることも少しは減るはずである。多少なりとも論文というものを書いたことがある者にとって「身のまわりにある物事や、社会で起きているできごとを見つめよう。なぜこうなっているのだろう?こういうことが起きるなんて不思議だ、と感じたことはありませんか。このような「問い」を大切にして、レポートのテーマを決めましょう。」という言葉は至言であるし、「テーマについての問題意識をはっきりさせよう」とか「このレポートで明らかにしたいことは何か」など、この言葉を聞かせたい人間はたくさん居る。大学一年生や大学院に入った人間にはこの中学国語教科書のこの部分を読ませるべきだ。

 

 例も秀逸で、「鉛筆はなぜ六角形なのか?」ということをテーマにしている。これについて、他の筆記用具との比較や鉛筆の製造過程、鉛筆の使用方法、鉛筆の歴史、鉛筆の種類など多角的な調査、研究の視点を挙げ、どのように調べたかも正確に記録して引用している。その理由は第一に「鉛筆が転がらないようにすること」であり、第二に鉛筆を持つさいに親指、人差し指、中指で持つことから、六角形だと持ちやすいことである。なるほどね~と普通に思ってしまうが、さらにこのレポート例では新たな疑問として「ではなぜ色鉛筆は丸いものが多いのだろう?」という問題提起を、本論をまとめながら提出している。「なぜ鉛筆は六角形で色鉛筆は丸いのか」という単なる知識、雑学ではなく、それをどのような手順を踏んでまとめるのかということ、単なる「調べ物」ではないレポートや論文を書くという観点が決定的に重要である。考え方や本の読み方にも応用できる話だ。だから繰り返しになるが、大学生も中学一年生の国語の教科書をこの部分だけでも読むべきだ。

 

 ちなみになぜ色鉛筆が丸いかは教科書には書いていないので調べてみると、色鉛筆の芯は普通の鉛筆とは違って太く柔らかいために、六角形にすると芯に過剰な力がかかり、割れてしまうかららしい。普通の鉛筆の芯は一度焼いているので強くて堅いために、六角形にして指の圧力が芯にかかっても割れないようになっている。なるほど、面白い。

 しかし「持ちやすいから」という理由でいえば持ちやすいのは三角形でも同じはずではないだろうか。これは当然の疑問で、実際、「おにぎりえんぴつ」という名前の三角形の鉛筆がかつてあったのである(僕の記憶に基づく)。しかしこれはあまり流行らなかった。なぜだろうか。恐らく三角形だとあまりに転がらないからではないだろうか。丸い形から離れすぎているのである。逆に、同じ論理でいけば九角形の鉛筆でも持ちやすいはずだが、これだとあまりに転がりすぎるからだめなのだろう。丸い形に近すぎるのである。したがって、教科書のレポート例の第一の理由である「転がらないようにすること」は不十分であり、「転がそうと思えば転がすことができるくらいの適度な丸さを確保すること」にしたほうがより実態に近いのではないかという仮説を提出したい。答えが分からないときには「鉛筆を転がせ」という古典的アドバイスがあるし、僕が子どもの頃に流行っていた、鉛筆を転がして出た目の技で勝負するバトル鉛筆、通称「バトえん」を想起すれば良い。ただ、なぜ鉛筆を延々とではなく適度に転がしたくなるのかは不明であるから、本当であればそこまで考察しなければならない。

 

 鉛筆といえば確か小学校三年生の国語の教科書に「いっぽんの鉛筆の向こうに」という読み物があったことを思い出す。この文章に出てくるスリランカのポディマハッタヤさんは七人家族で、息子にサマンタくんというのが居る。家族の写真は幸せそうである。アメリカで木を切るトニー・ゴンザレスさんも出てきて、さまざまな人たちによって鉛筆ができているということを学ぶという内容だ。遠い昔のことだが、出てきた人物の名前やサマンタくんの顔まではっきりと覚えている。それくらい何度も読んだのだろうし、ポディマハッタヤさんという語感が印象に残ったのだろう。小学生とはいえ、この僕に何度も読ませる文章を書くとは、なかなかの名文家だったのだろうと思っていま調べてみると、著者は谷川俊太郎であった。なかなかやるじゃないか。そういうわけで谷川俊太郎のベストは詩ではなく「いっぽんの鉛筆の向こうに」である。

 

 

 

 

 

 

シネマ三銃士Z 第105回~この女優を見よ!ダイスケ編~「渇き。」

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はい、というわけで今回も始まりました、シネマ三銃士Z。わたくし司会のダイスケです。

さてさて、この回は竹内くんとマサトシがお休み。ぼく、ダイスケとシュウくんの二人でお送りします。時折聞こえる笑い声はディレクターのはじめちゃんです。

オープニングは古市さんの「ハーフは劣化しやすい発言」について。ぼくの発言にもある通り、完全に時機を逸しています。

それにしても挙げ足とってる感じにも聞こえますが。ぼくたちは、こうしてお金をもらわずとも書き、喋っている中で、誤解を与える表現はないか、誰かを傷つける表現はないか、常に気を配っているのです。それが大きなメディアに出る人がああした発言をするのが純粋に不思議でならない。

まあ、お金をもらっているかどうかは正直関係ない。今の世の中、情報技術の伸展した世の中においては、すべての個人がそうした気配りをしてしかるべきだと、ぼくは思います。大きなメディアだろうが、こうして世界の片隅で情報を発信している立場だろうが、本質的に変わらない。同じ土俵の上にいるものだと、ぼくは思います。

この世界の中の個人としてのぼくが、同じ世界の中の個人としての古市さんを批判している、まあそれだけのことです。そして、それが今の世の中でしょう。それはまた、世界の片隅の人間にも課される責任です。

まあ、みんな気をつけようね、ってことで。口が滑ることもあるだろうし、サービス精神が旺盛だとよくあることだから。

で、映画のお話は康芳夫について。

康芳夫 - Wikipedia

yapou.club

違った。「渇き。」だ。

ぼくが観てほしかった女優さんは小松菜奈さん。

小松菜奈 - Wikipedia

ameblo.jp

STARDUST - スターダストプロモーション芸能3部 - 小松菜奈のプロフィール

本当にこの映画は彼女のためにある映画なのだと、ぼくは思う。話として傑作だとは言えなくとも、この彼女を保存できていることだけで、この映画は価値があるのではなかろうか。

言い過ぎか。

 そんな感じで、ぼくたちの話を聴いてみそ。

 

 

 

 

 

中学国語教科書を読む―その6―

平成24年度版中学校国語教科書『中学生の国語』|三省堂「ことばと学びの宇宙」

 

 第6回である。次は「竹取物語」。全部はとても長いので、いくつかの場面を抜粋して掲載されており、その間に編集委員による説明が挟まっている。冒頭では「古典には、その当時の人々の生活や心情、ものの見方や考え方が描かれています。「現代とは違っている」と思うことや、反対に「現代と変わらないな」と感じることなどに気をつけて「竹取物語」を読んでみましょう。」と書かれている。古典一般の話であればその通りだと思うが、現代との比較という観点で竹取物語を読むことの意義はよくわからない。「現代と違って三寸ほどの人間が存在していた」とでも答えればよいのだろうか? それとも結婚観だろうか。この物語は有名な割にはどこがポイントなのかが昔から僕にはよくわからない。

 

 「今は昔、竹取の翁といふ者ありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、よろづのことに使ひけり。」」この冒頭は超有名で、誰もが勉強したことがあるはずだ。そして美しく成長するけれども五人の貴族たちの求婚はことごとく断る。このときの無理難題の物語も面白く、よく紹介される部分なのだが、その後、かぐや姫天皇の求めさえも拒絶してしまう。なぜ彼女はこれほど結婚を拒んだのか。月の世界の住人だからというのが素直な回答なのだろうが、別に結婚していても月に帰れないわけじゃないだろうし、決定的な理由になるとは思えない。なんで?

 

 ラストになると、月から使いがやってくる。ここでの場面はなんというか、非情に冷淡というか冷たい。一人の天人がかぐや姫に「壺に入っている薬をお飲みください。きたない地上のものを召し上がってきたので、ご気分が悪いことでしょう」などと言い、かぐや姫に薬を飲ませるのだ。なんてひどいことを言うんだ!と憤ることもなく、かぐや姫は少しそれを舐める。さらにかぐや姫はこの薬を肩身として置いておこうとするのだが「天人包ませず」。結局は不老不死の薬を天皇に手紙と一緒に渡すことになるのだが、この天人たちの態度は本当にきたない世界で下等な人間たちと接しているのが嫌なんだろうと思わせるような感じだ。

 

 極めつけは天人たちが天の羽衣をかぐや姫に着せる場面だ(ここから各地の羽衣伝説との関連を指摘する声も多くあるようである)。この羽衣は、一度着るとそれまでの地上での記憶をなくしてしまうらしい。

「ふと天の羽衣うち着せたてまつりつれば、翁を、「いとほし、かなし。」とおぼしつることも失せぬ。この衣着つる人は物思ひなくなり、車に乗りて、百人ばかり天人具して、登りぬ。そののち、翁・嫗、血の涙を流して惑へど、かひなし。」

 この描写はすごい。さっと羽衣を着せられた瞬間に、翁のことを「気の毒だ、かなしい」と思う気持ちは一瞬で消えうせ、人間としての「物思い」はなくなってしまった。これはとても不気味なことだ。かぐや姫が人間ではなくなる瞬間が目に浮かんでくる。その後、翁と嫗は「血の涙」を流した。これもぎょっとするような悲しみ方で、悲しみの深さが伝わってくる、というよりは狂気じみたものを感じる。僕が竹取物語と聞いたときにイメージするのはいつもここの場面なのである。かぐや姫が人間ではないものになる瞬間の不気味さ。おじいさんとおばあさんの流す「血の涙」は、かぐや姫に二度と会うことができないということのみに向けられたものではない。かぐや姫が全くの別人になり、もはや彼らの記憶すら持っていないのということ、「遠く離れていて、今は会えないけど、きっと自分のことを思い出してくれているんだろう」といった種類の感慨すら持つことを許されないことの悲しみにも向けられているに違いない。月の都は明らかにディストピアである。

 

 その後、不死の薬を形見として残された天皇は、かぐや姫がいない地上でどれほど長く生きても意味がない、と嘆き悲しみ、天に最も近い山でこの薬と一緒に入っていて手紙を焼かせた。それこそが「ふじの山」であったらしい。不死の山というわけだ。

 

 この物語を素材にした高畑勲の「かぐや姫の物語」は本当に傑作で、この物語をよくよく読み、自分なりの解釈を加えたんだろうということが分かる。一直線に広小路を着物を脱ぎ捨てながら疾走してゆくかぐや姫像は画期的なものだったし、捨丸との飛行旅行もまたマノエル・ド・オリヴェイラの『アンジェリカの微笑み』と共鳴する素晴らしい場面だった。月からの使いのシーンも高畑がどのようにアニメ化したのかに注意して観ていただきたい。

 

 そうだ、教科書の竹取物語なんて後でいいのでみんな「かぐや姫の物語」を観よう!あとついでにかぐや姫という優れたフォークバンドのこともどうか忘れずにいてほしい(おわり)

 

 

 

 

 

かぐや姫ベスト

かぐや姫ベスト

 

 

 

中学国語教科書を読む―その5―

平成24年度版中学校国語教科書『中学生の国語』|三省堂「ことばと学びの宇宙」

 

 今回は漢詩と漢文を扱う。中学一年生でもこんなのをやったっけか。あまり記憶にないが、有名な孟浩然「春暁」と論語による「吾、十有五にして学に志す…」のやつ。

 

 「春暁」は素晴らしい漢詩で、「春眠暁を覚えず 処処啼鳥を聞く 夜来風雨の声 花落つること知る多少」というものである。春の眠りが心地よくて、ついつい朝寝坊してしまった。外からは鳥のさえずりが聞こえる。昨夜は風と雨が激しかったようだが、花はどれほど散ってしまっただろう、と多分布団の中で想像している。「あっ、こんな時間か。学校へ行かなきゃ!」と焦る様子もないようだから、二度寝するに決まっている。実際これを書いた孟浩然は、官吏としての出世の道はうまくいかず、放浪した生活からこの詩を書いた。

 

 教科書には白文、つまりオリジナルの漢詩そのものは載せられておらず、日本語のまま読めるようにした書き下し文と、その下に現代語訳だけが載せられている。押韻やら返り点やらはまだ早いというわけだ。しかし、春眠不覚暁を「春眠暁を覚えず」は不自然だ。ふつうこの文脈であれば「覚」という漢字は覚える、ではなく「目が覚める」という意味合いで考えるのが普通で、「春眠、暁に覚めず」と読むべきだろう。特に漢文の知識もないが、これは中学生の頃から確信している。これについて知り合いの中国人に聞いてみると「どっちでも意味は同じだ」と言われてしまったけれども、それは中国人からすれば日本人がどう読もうが「春眠不覚暁」だからいいのかもしれないが、「覚えず」か「覚めず」では全く違う。意味が同じだからといって読み方がどちらでもよいことにはならない。「花落つること知る多少」の部分にも争いがあるが、割愛しておこう。

 

 もう一つは有名な「不惑」の由来となった論語の一節である。十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順い、七十にして心の欲するところに従って矩を越えないらしい。これは有名な一節で、とりあえず「一般常識」的には四十歳が不惑ということを覚えておけばよいのだろうが(知命とか耳順とか必要ある?)、キオスクで売ってそうな論語をネタにした啓発本を鵜呑みにしたおじさんは結構多いから気をつけたい。僕は校長が全校生徒に向かってこれを話していたことを覚えている。しかしこれを人生訓にするのは勝手だが、誰でも惑わないような人間になれるわけではなく、まず出だしの「十有五にして学に志す」という高いハードルをクリアしなければならない。十五歳で学問を志すというこの難関は、これを読ませられるであろう13歳の中学一年生からすれば中学三年生、高校受験の時期にあたるわけだが、ここで大半はこの「論語コース」から脱落する。かくいう僕も学を志したというほどの気合は全くなかったわけだが、別に僕はくだらない人生訓なんて気にしないからどうでもいい。言いたいことは、十五歳で学問を志した奴だけが偉そうにこの孔子の個人的経験から成る一節の講釈を垂れる資格があるということだ。

 

 しかし孔子も六十歳になってようやく耳順う、すなわち他人の意見を素直に聞くようになったのか。けっこう手のかかるおじさんである。それどころか、七十歳にもなって自分の思うとおりに行動しても人の道を外れないようになった、とさえ言っているのだから、スケールが違う。既に天命を知り、他人の意見を素直に聞く老人が、七十歳にもなって人の道を外れそうなことをするとも思えないが、そういうことを七十で思いつくだけ元気で喜ばしいということだろう、多分。孔子は72歳か73歳で死んだそうだから、余計にそう考えてしまう。そういうわけで、八十にしてどうなるかはよくわからないままだ。

 

 

儒教とは何か (中公新書)

儒教とは何か (中公新書)

 

 

 

海外文学バカ一代 第二回「自己紹介がわりの何かと2月の新刊」

と、いうわけで第二回。前回は挨拶がわりとしてぼくがどんな本を読んできたかを並べていったのだけど、アメリカの作家ということでもジュライとか、デニス・ジョンソンとかいろいろ忘れていた。もしかしたら、ああして羅列するのは無理があるのかもしれない。

で、今回はもう面倒だから気になる新刊のことを書こうと思う。一貫性がないけれど、臨機応変ということで。

前回書いたけれど、ぼくはスティーヴ・エリクソンが苦手だ。一応『Xのアーチ』『エクスタシーの湖』『黒い時計の旅』と買ってはあるものの、読み通せていない。

スティーヴ・エリクソン - Wikipedia

ピンチョンがほめているみたいだから気になったのだけれど、いまいちぼくには合わなかったようだ。

何がダメなんだろう。幻視の作家、みたいなことを言われるエリクソンだけど、そうした作風がぼくは嫌いなのかもしれない。

で、2月にエリクソンの新刊が出る。白水社から『ゼロヴィル』、集英社文庫で『Xのアーチ』。

エリクソンは昨年末にもちくま文庫で『きみを探して』が出ている。どうしたんだエリクソン。ブームが来るのか?

あ、本人が来日するのか。

エリクソンは3月に開催される東京国際文芸フェスティバルに来るらしい。

tokyolitfest.com

というわけで、苦手だけれど流行りに乗ってエリクソンを読もうかと思う。せっかく買って持ってるし。感想は次回。

ブームといえば前回ぼくが苦手だということで挙げていたもう一人、ミシェル・ウェルベック

ミシェル・ウエルベック - Wikipedia

ウェルベックは『服従』以来ちょっとしたブームが来ていた感じがするのだけど、どうだろう?

去年の9月に『服従』

10月にはちくま文庫から『地図と領土』河出文庫から『プラットフォーム』

そして今月『ある島の可能性』が出た。

ぼくはちくま文庫から出ている『素粒子』を読んだだけなのだけれど、あんまり楽しく読んだ記憶はない。

ウェルベックに限らず、フランスの小説がちょっと苦手なのかもしれない。

といっても、フランスの小説って『ボヴァリー夫人』か、ジャン・フィリップ・トゥーサンぐらいしか読んでない。『地下鉄のザジ』は買ったけど読んでないや。

まあ、結局のところ読まず嫌いなのかもしれない。

と、いうわけで、読まず嫌いはやめて、ウェルベック、読んでみようかと思う。流行ってるみたいだし。

ぼくはミーハーなのだ。

フランスというと、なんだか小説よりも哲学とか思想が思い出される。フーコーとかデリダとかドゥルーズとか。難しいんだけど、読んでるとかっこよくない?

ああ、あと2月にはオルハン・パムクの新刊が出る。

オルハン・パムク - Wikipedia

言わずと知れたトルコ人初のノーベル賞受賞者。『わたしの名は紅(あか)』と『雪』は読んだ。どちらもよい。

『わたしの名は紅』はオスマントルコの細密画家たちの話。細密画家のひとりが殺される。この殺された細密画家が話者。いったい彼はなぜ殺されなければならなかったのか。謎を追っていく様はミステリー小説のよう。まあ、小説って基本的に全てミステリー。

『雪』は現代トルコの話。十数年ぶりに外国から故郷に帰った詩人が主人公。ある殺人事件について取材をすることになるのだけれど、それを進めていくことで主人公は迷宮に迷い込んでいく。なんだかカフカの『城』を思い出した。

で、新刊が『黒い本』

3888円、高い。

海外文学の単行本は高い。3000円はざらだし、もっと高いこともある。で、中途半端な金額のものを買うといまいちだったりする。その点、文庫で出ているとすごく助かる。たとえ上下分冊にされていたとしても、文庫だと気が楽だ。そんな気がするだけで、決して財布に優しいわけじゃないけど。だって、分冊だと結局2000円以上にはなるでしょう。分冊じゃなくても、1500円ぐらいの値段は平気でつけられていて、それって単行本の値段じゃん、って思うわけだ。

さて、一応、現時点で読もうと思ってるのはエリクソンウェルベック。でも、2月に入ったらボラーニョの『2666』をついに買おうかと思っているから、どうなってるかわからないけど。

というわけで今回はここまで。またね。